七
りんだうの咲く家の
窓から首を出して
まゆをひそめた女房の
何事か思ひに沈む
欅(けやき)の葉の散つてくる小路の
奥に住める
ひとの淋しき
2行目の「首」から3行目の「まゆ」への視線の移動は、西脇独特の闊達な動きである。「顔」を出して、「まゆをひそめる」だと、視線が移動せず、集中する。西脇にとっては、「集中」よりも「移動」が重要なのである。
りんどう→家→窓→首→まゆという動きも、集中というよりは移動である。集中するに白、最初から狙いを定めてそこへ向けて動くのではなく、まわりをあちこち動き回りながら(つまり、脇道へ逸脱しながら)、最終的にある一点にたどりつく。
目的地(?)にたどりつくことに詩があるのではなく、目的地があるにもかかわらず、どこかへはみだしてゆくところにこそ、詩がある。逸脱する運動が詩なのである。
3行目の「女房」(にょうぼう)という音が、また美しい。「女」(おんな)であったら、この詩の魅力は半減する。「にょうぼう」というゆったりとしたふくらみのある音が、「りんどう」から「まぬ」までの移動の運動に、ゆっくりとブレーキをかける。ことばの速度を遅くする。「おんな」という短い音では、ことばが加速してしまう。
「にょうぼう」というゆっくりした音で、転調が起きる。
「女」と違って「女房」は、家庭・家族というものを連想させる。男と女の時間とは違った余分なもの(?)を「女房」は抱え込んでいる。
世の中には、「女」に属する「永遠」(真実)もあるが、「女房」に属する「永遠」もある。「女」ということばでは、そのふたつの永遠、永遠がふたつあるということがわからない。「女房」だからこそ、おんなの時間にふたつの永遠があることを指し示すことができる。
「ひとの淋しき」というとき、その「ひと」は「女房」から見た「ひと」である。余分なもの(?)のなかに取り残された「永遠」。
いま、私が書いたのは……。
「女房」が余分というのではない。「女房」が抱え込むいろいろなものなかに生き続けているもの、そのなかにある「永遠」という意味である。男・女の関係を乗り越えてあふれるものがある。そして、そのあふれて、まわりをうめつくすものなかに、男・女の関係では見落とされるもののなかに生き続ける「いのち」の「淋しさ」。それが「永遠」。
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