『旅人かへらず』。そのつづき。
二
窓に
うす明かりのつく
人の世の淋しき
三
自然の世の淋しき
睡眠の淋しき
四
かたい庭
五
やぶがらし
ここまでつづけて読んできて、一番「淋しさ」を感じるのは「やぶがらし」である。何の修飾語ももたず放り出されているからだろうか。何もとつながっていないからだろうか。それもあるかもしれないが、「やぶがらし」という「音」そのものがとても美しく、美しいゆえに「淋しく」感じる。
「やぶがらし」という音はほかの人にはどう響くのかわからないが、私には非常に賑やかに響く。最後の「し」の音はどこか遠く消えていくような音だが、それまでの「やぶがら」の自己主張の強い、明るい、そして濁音独特の豊かな音が、自己主張のゆえに孤立している感じがする。孤立したまま、次の音につながっていく。その感じが、私には「淋しさ」に感じられる。
「二」の「窓に/うす明かりのつく/人の世の淋しき」はいわゆるセンチメンタリズムに通じる。「うす明かり」の「うす(い)」という頼りなさが「淋しさ」と通い合う。
ところが、「やぶがらし」は何とも通い合わない。そこに美しさと淋しさがある。
「睡眠の淋しき」も、何にもつながらない美しさ、孤の美しさが感じられる。ただし、この「睡眠の淋しき」という音のつながりは、私には、とても湿っぽく感じられる。「さ行」と「い」の繰り返しが、「二」のセンチメンタルをひきずっているようで、重苦しい。
「やぶがらし」という音は、そういうものと断ち切れている。「一」の「ああかけすが鳴いてやかましい」に似た、それまでの音の動き、イメージの動きを破る音楽がある。だから、私は、その1行を美しいと感じる。
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