誰も書かなかった西脇順三郎(7)  | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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黄色い菫が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖つた船に花が飾られ
ディオニソスは夢みつつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた。
麗(ウララカ)な忘却の朝。

 「黄色い菫が咲く頃の昔、」という1行目の「昔」の位置に意識がひっかかれる。こういう「ひっかき」は「喉・耳」の「音」ではなく、「頭脳」の「音」である。西脇には、こういう音楽もある。2行目の「天にも海にも頭をもたげ、」もすこしこれに似ている。海から頭を出すとき、それはたしかに「天に」頭をもたげることになる。けれど、「海に」はどういうこと? 潜水することを「頭をもたげる」とは言わない。言わないのだけれど、その前に「天に」とあるので、そのことばにひきずられて意識が「日本語」から逸脱する。
 西脇には、「日本語」から逸脱する音楽がある。--ということと、うまくむすびついてくれるのかどうかわからないが、タイトルの「皿」が出てくる5行目から。そこから「意味」ではなく「音」のおもしろさがはじまる。
 「もよう」「ほうせきしょうにん」「ちちゅうかい」「しょうねん」。「う」。これを西脇はどう発音するのだろうか。ひとは、どう発音するのだろうか。「う」とは発音せず、前の音をのばす。別の表記で書けば「ー」(音引き)である。そして、これは「ひらがな」よりも「カタカナ」がにつかわしい。「モヨー」「ホーセキショーニン」「チチューカイ」「ショーネン」。
 なんだか、外国語みたいだ。外国語みたいに、耳に新鮮だ。
 その外国語みたい--という印象が「麗な」に振られた「カタカナ」のルビのなかに結びつき、輝く。ひらがなで「うららか」ではなく、「カタカナ」で「ウララカ」と発音する。(もちろん、これは、意識において、という意味である。発音そのものはかわらない。)
 そうすると「忘却」も「ボーキャク」になる。

 西脇の頭の中には、日本語から「逸脱」した「カタカナ」の音が響いていたのだと思う。そして、それが、私にはとても美しく聞こえる。「日本語」の意識を振り払った、ただの「音」、「意味」を背負い込む前の「音」、音楽の手段としての「音」に聞こえる。
 (音楽家からは、「音」は「音楽」の「手段」ではない、という反論が聞こえてきそうだけれど。でも、とりえあず「手段」ということばをつかっておこう。)


ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

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