豊原清明「父のメガネをかけた豚か 羊か」 | 詩はどこにあるか

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豊原清明「父のメガネをかけた豚か 羊か」(「白黒目」17、2009年05月発行)

 個人誌「白黒目」にも豊原は脚本を書いている。「父のメガネをかけた豚か 羊か」。これも非常におもしろい。
 豊原の脚本はストーリーをつくらず、そこに存在する「もの」をストーリーにしてしまう。ストーリーを破壊して、そこにある「もの」が、その「過去」とともに噴出してくる。「もの」の「存在感」。「存在感」そのものが、語られることのない「ストーリー」なのだ。この語られることのない「存在感というストーリー」が詩なのである。

○ お茶をわかしているヤカン
   火をアップで撮る。
   カメラ、引く。
   トーストの上に置いた、僕のメガネを撮る。
僕の声「しんどいなあ(嘆息)。」

○タイトル『父の眼鏡をかけた豚か 羊』

 冒頭である。「しんどいなあ(嘆息)。」は、ストーリーをくすぐる。ストーリーが始まる予感を引き出す。けれど、それはすぐに「タイトル」によって破壊される。中断される。
 清原は、「タイトル」さえも、ストーリーを破壊するものとして活用する。
 そして、つづける。

○ 四畳半の部屋の遠景
僕の声「カメラ買っても、撮らしてくれへん。家族を盗み撮りするしかない。」

○ カーテンをバックに僕がぼやいている。
  肥満体。ポケットに手を入れて、ブツブツ言う。

 映画を撮りたい。けれど、だれも「出演者」にはなってくれない。撮影させてくれない。そういう「僕」のストーリーが見えてくる。「僕」の苦しみがストーリーになりそうになる。その「苦悩」を、すぐに「肥満体」が破壊する。肥満体の人が苦悩してはならないというのではない。苦悩という印象を叩き壊すようにして、「肥満体」という「肉体」そのものが前面に出てくる。「ポケットに手を入れ」た姿、「ブツブツ言う」姿が、苦悩を乗り越えて前面に出てくる。「苦悩」を見る前に、観客の視線は「肥満体」を見てしまう。「肥満体」がもっている「過去」を感じてしまう。「映画を撮れない」という苦悩よりも、「肥満体」そのもののなかにある苦悩を感じてしまう。もちろん、「肥満体」そのものは何も語らない。語らないけれど、その姿、「ポケットに手を入れて、ブツブツ言う」が、映画を撮れない、カメラで映すものがないという以上のものを語るのだ。
 途中、省略して。

○ 氷のコップを映す

○ 腕立て伏せ、しようとする僕。
   腕立て伏せはせずに、河馬みたいに仰向けに成る。

 ここには「もの」しかない。「映画を撮れない」という苦悩はストーリーにならずに、「僕」の「肉体」だけが、存在を自己主張する。
 そして、そのとき、存在のことばにならない自己主張とともに、実は、ストーリーも感じるのだ。映画を撮れないという苦悩のストーリーを。それは、肥満体によって叩き壊されることで、声にならない悲鳴を上げている。それがどこからともなく聞こえる。いや、どこからともなくではなく、「肥満体」のなかから聞こえる。
 矛盾した言い方になるが、映画を撮りたいのに撮れないという苦悩は、「肥満体」の存在感によって叩き壊されることで、否定され、死んでいくこと、ことばにならないことによって、実は、生き返っている。「肉体」のなかに、ストーリーの死と、ストーリーの再生がある。その、死と生の、出会いの「場」としての「肉体」というものがある。「肉体」にかぎらず、あらゆる「もの」がある。
 豊原は、そういうものを本能的に(としか、私には思えない)、ぐいとつかみとってくる。その生々しい力に圧倒される。

○ 新聞を畳んでいる父を撮る
   父、顔をあげて
父「撮らんとって!」
   それでも近づくカメラ。        父の眼鏡をアップで撮る。

 ここには、撮影を拒む「父」の「いま」があるのだけれど、その拒絶の姿をとおして、観客が見るのは「いま」だけではない。「いま」より前に何度も繰り返されたであろう「同じ過去」を見る。繰り返される「同じ過去」が積み重なって「いま」を突き破るのだ。それが、「撮らんとって!」という短いことばと「それでも近づくカメラ。」という短い動きによって明確になる。カメラ自身にも「積み重なった同じ過去」があるのだ。そして、それが「いま」、「ここ」に噴出してきている。カメラ自身さえも「演技」する。つまり、「自己の存在感」を主張する。
 あ、そうなのだ。
 映画とは、役者の「存在感」がストーリーを破壊することでストーリーを豊かにするのと同様、カメラ自体の「存在感」、「過去」によってストーリーを破壊し、ストーリーを豊かにするのだ。
 豊原の脚本は、映画の本質をもえぐりだしている。

 ラストシーン。

○ 再び、ヤカンの火を撮る。

○ 部屋の冷えきったクーラーを、ブレさせて、撮る
僕の一句・声「少女美し日本は嫌よ夏来る」

 「ブレさせて、撮る」。「ブレ」はミスではなく、「存在感」なのだ。
 ふと、ジャ・ジャンクー「四川のうた」の最初の方のシーン、男のインタビューの前のシーンを思い出す。工場の内部。外から光が入ってきている。それが焦点をぼかした甘い映像ではじまり、少しずつ焦点があってくる。そのシーンを思い出させる。
 カメラも生きている。対象に向かって焦点をあわせていくとき、そこに「過去」が噴出する。生きてきた時間のすべてが噴出する。そして、「いま」を突き破った瞬間に、永遠が(普遍が、といえばいいのかもしれない)、ぱっと輝いて炸裂する。
 この炸裂に、豊原は俳句を重ね合わせている。俳句とは、豊原にとって、きっと、存在感の炸裂する「一期一会」の瞬間なのだ。
 完璧だ。
 脚本でしか知らないのだが、思わず、目の前にスクリーンがあって、映像があって、という印象が迫ってくる。おわった瞬間、思わず拍手をしてしまう。いまはもうだれも映画を見終わったあと拍手などしないけれど、豊原の脚本を読むと、映画をはじめてみたころの感動、おわった瞬間に拍手してしまう感動を思い出してしまう。

 完璧。完璧、ということば以外に、何を書いていいか、わからない。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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