田村は「性」をしきりに書く。そして、その性は「簡潔」ということばに収斂するように思える。「声から肉体が生まれる」に「簡潔」ということばが出てくる。
宮廷の道化師たちは
モンマルトルのキャバレーで変身する
貴族の手から大商人 小商人のシルクハットのなかに
モンマルトルのみだらな夜を歌うイヴット・ギルベールの
邪悪な表情と声に
肉だけのブルジョアたちは歓喜する
男性そのものの黒いビロードのブリュアンの
不気味な悪の詩の朗読に
影の存在となった観衆は 性の簡潔さに
はじめて気づく
この「簡潔」さは「肉・性」というものかもしれない。「性」もいろいろなものをまとっている。いろいろな技巧というか、形式がある。「枠」がある。それを叩き壊して、「無防備」な性になる。「簡潔」はたぶん「無防備」と同じである。無防備とは、何が起きてもかまわない、という覚悟のことでもある。
その引き金として、田村は「声」を取り上げている。その「声」は「肉・声」である。
田村は、ここでは「肉声」ということばはつかっていないのだが、自然に、「肉声」ということばを私は思い出してしまう。同時に、とても不思議な気持ちになる。
肉眼と同じように、なぜか「肉声」ということばがある。「肉・耳」「肉・鼻」「肉・舌」ということばはないのに……。そして、その「肉・声」が「肉体」をひきだしている。
「肉・体」の奥から出てくる「肉・声」。それが、たぶんさまざまな「枠」を否定するのだ。みだらに、邪悪に、人間がもっている「枠」に触れながら、それを引き剥がす。
このとき「肉・声」は実は「声」であると同時に「ことば」である。「肉・声」は「ことば」になって、みだらで、邪悪なことばになって、人間の「枠」にぶつかる。はげしい衝撃のなかで、「枠」が叩き壊され、「肉・体」だけになってしまう。そこに、必然的に「性」が立ち上がる。
その性は、人間関係をすべて消し去る。「肉・体」だけのぶつかりあいにかえてしまう。とても「簡潔」だ。
「簡潔」は、田村が追い求めている純粋な何かである。
ファッションの鏡 (1979年) 田村 隆一,CECILWALTERHARDY BEATON 文化出版局 このアイテムの詳細を見る |