『絵本 火垂るの墓』(1987年)。私が読んでいるテキスト『全詩集』(思潮社版)には「絵」はない。文字だけである。
この作品では「あつい」と「つめたい」が繰り返される。
大きな鳥 ぎんいろの鳥
アメリカ生れの 大きな鳥
その鳥が 熱(あつ)い卵(たまご)を
たくさん 産(う)んだ
熱い卵は 知ってる家
知ってるオバさん あそんでくれた
おにいちゃん 子どもたち
犬も 猫(ねこ)も もやしてくれる
熱い卵 つめたい心
おにいちゃんの 熱い腕(うで) あつい心
いくら 水があったって
あつい心の 火は消せない
野坂昭如の『火垂るの墓』の語り直しである。
「熱い卵」の「つめたい心」のせいで、生きているいのちは「もえて」「つめたく」なる。けれども、そのいのちの「あついこころ」はなくならない。
後半が、特にせつない。
あつい光
つめたいからだ
太陽の 子どもたち
みんなが
かえる 口笛(くちぶえ)を ふきながら
おにいちゃん わたしの 頭の
うしろを もんでくれる
あつい心がうまれるように
つめたいからだが よくなるように
わたしは ねむくなった
つめたいからだ
あつい涙(なみだ)が チョッピリ
ながれた
せつなさは、「あつい心がうまれるように/つめたいからだが よくなるように」の繰り返される「ように」に結晶する。「ように」のあとには、ことばが省略されている。「祈りながら」「願いながら」ということばが。
青いライオンと金色のウイスキー (1975年) 田村 隆一 筑摩書房 このアイテムの詳細を見る |