坂多瑩子「傘」、中井ひさ子「ある日」 | 詩はどこにあるか

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坂多瑩子「傘」、中井ひさ子「ある日」(「ぶらんこのり」17、2009年06月11日発行)

 坂多瑩子「傘」は記憶がじわりと「肉体」浸透してきて、「肉体」そのものになってしまう不思議な感じがある。

木立のはずれに草地がある
傘がほしてある
夕方おばあさんは傘を閉じにやっくる
ていねいに閉じて
おばあさんが
行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると
まわりの木の枝がのびてくる
本の挿絵でみた
黒い森 そっくりに
黒い森の絵の下には
やがてなにもみえなくなると書いてある
空気は熱く よどんでいる
あたまがくらくらする

 傘が干してある草地そのものが実際のものか記憶かわからないけれど、その光景のなかに「本の挿絵」という記憶がまぎれこんでくる。そして、その記憶が「世界」を動かしていく。

やがてなにもみえなくなると書いてある

 ほんとうになにも見えなくなるのが先なのか、それともそう書いてあるのを思い出したので世界がそんなふうにかわるのかわからなくなる。「あたまがくらくらする」。
 この動きが自然で説得力があるのは、それに先立つ、

行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると

 この行の呼吸のためである。ここから、ほんとうは変化がはじまっている。
 「行ってしまうとあたりは暗くなる」のあと、改行されて「暗くなると」だと、「やがてなにもみえなくなると書いてある」が嘘っぽくなる。対象との距離が整然としすぎて、嘘っぽくなる。また、「おばあさんが行ってしまうとあたりは暗くなる」ではないことも重要だ。「行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると」という行は、「主語」をもたない。「主語」がないから、「暗くなる」のあとすぐに「暗くなると」と「ずれ」ていくことができる。
 「暗くなると/まわりの木の枝がのびてくる」ということは現実にはありえないけれど、その前のことばの呼吸が「主語」をふっとばすことで、「頭」の判断を拒絶し、かわりに記憶を呼び込む。「記憶」を「主語」にしてしまう。
 「主語」を欠いたまま、「記憶」が「頭」を強引にひきずりまわすのである。「頭」は「頭」であることができず、「肉体」になってしまう。「肉体」に頼ってしまう。そして、ますますおもしろくなる。
 何が見えて、何が見えないのか、わからなくなる。
 なにも見えないはずなのに、たとえば「やがてなにもみえなくなると書いてある」という「こと」が見える。「もの」ではなく「こと」が見えるようになる。
 「こと」を見ているのは「頭」ではないし、「肉体」でもない。「肉体」になってしまった「頭」が、なんと名付けていいかわからない「目」で見ている。
 この「目」はとてもおもしろい「目」である。

傘を閉じていたおばあさんの顔は
おかあさんによく似ていた
いもうとの傘 あたしの傘 あたしの傘
ていねいに閉じていた
黒い森はあたしのへやに
はいってくる
あたしは眠る
傘がとおくに見える
黄色いひなげしの花の傘
夜なので
色がみえない

 何が見えた? 「色がみえない」という「こと」が見えたのだ。
 「黄色」は「肉体」のなかにあって、そこから「肉体」の外へ出ていこうとしている。夜のなかへ出て行こうとしている。「目」はそれを追いかけている。「肉体」から出て行く「色」を。そういう「こと」が、「肉体」のなかで起きている。

 詩とは、「もの」ではなく「こと」なのだ。



 中井ひさ子「ある日」にも「こと」が出てくる。

真昼に笛の音が
風にのって訪ねてくると
背骨が低く鳴り出し
語ったこと
語らなかったことが
ねじれて揺れて
思いのほか痛みます

 おもしろいのは「語ったこと」と「語らなかったこと」が同等であるということだ。「語ったこと」と「語らなかったこと」が同じなら、「人間」と「人間」以外のものも同じになる。
 2連目。

身体の内の細い道に
人影はありません
赤目のウサギの耳だけが
時々動きます
昨日のことも
もっと前のことも
思い出してはいけません

 人間とウサギは区別がなくなる。そして「昨日」と「もっと前」も区別がなくなる。さらに、「思い出してはいけません」といってみたも、「思い出すこと」と「思い出さないこと」も同じことになってしまうので、「思い出してはいけません」と言えば言うほど「思い出すこと」にもなる。

 「頭」と「肉体」が浸透しあって、不思議な「こと」そのものになる。そのなかに、詩が、自然に浮かんでくる。「こと」から詩が生まれてくる。