ぼくは十七歳の四月 早稲田の古本屋で
不思議な詩集を見つけて
東京の田舎 大塚から疾走しつづけた
ワインレッドの菊型の詩集をめくっていると
ほんとに手まで赤く染まってきて
小千谷の偉大な詩人 J・N
言葉の輪のある世界に僕は閉じこめられてしまって
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
イタリアの白い波頭に裸足のぼくは古代的歓喜をあじわって
だしぬけに中世英語から第一次大戦後の
近代的憂鬱に入る
西脇のことばに触れる。そのとき、田村は西脇に触れているのか、それとも他の何かに触れているのか。
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
この1行は、その疑問に何も答えてくれない。答えるのではなく、疑問を、さらにかきまぜる。「灰色の菫」。それは酒場であると同時に、ほんとうの菫である。菫が灰色というのは、ほんとうか。そんな菫があるのか。わからないけれど、いや、わからないから、それが本物に見える。ほんものの菫ではなく、ほんものの「ことば」に。
田村がおぼえたもの--それは「ことば」なのだ。「ことば」が、そこにあるということなのだ。「ことば」があるとき、その向こう側にあるのは何だろうか。現実だろうか。意識だろうか。人間だろうか。時間だろうか。場所だろうか。すべてがある。そして、そのすべては一瞬のうちに、ことばを通って現実になる。感覚を、意識を刺戟するものになる。古代ギリシャも「灰色の菫」も酒場も、第一次大戦も、近代的憂鬱も、同じように存在する。そこには時間、空間、そして物質そのものの差異さえない。すべてが「等価」になる。すべてを「等価」にする--それがことばだ。ほんもののことばだ。
ぼくは五十歳 偉大なるJ・Nは八十歳
ハムレットの「旅人帰らず」という台詞がお気に召したらしく
J・Nはピクニックに出かけてしまったが
「じゃ現代はいったいなんなのです?」
おお ポポイ
哀ですよ
人は言葉から産れたのだから
J・Nは言葉のなかにいつのまにか帰っているのだ
「言葉から産れ」「言葉のなかに」「帰っている」。この運動。運動がつくりだす「間」のなかに、東洋も西洋も、あらゆる時代が平等に存在する。等価に存在する。その「等価」を「等価」のまま輝かせるのが、詩、なのである。
「等価」のなかで、ことばはの祝祭がはじまるのだ。
四千年まえの 二千年まえの 百年まえの
言葉という母胎に帰ってくる旅人たち
<四月は残酷そのものさ>
いつのまにか猟犬が鼻をつけ
まるでT・Sエリオットのような声で
ここ掘れワンワン
ここ掘れワンワン
吠えつづけている
四千年前も、二百年前も、エリオットも花咲爺も同じ。それが、詩。いいかえれば、そういうものすべてを「等価」にしてしまうことばのエネルギー自体が詩なのだ。そこにあるのは秩序ではなく、秩序を破壊し、秩序からの解放なのだ。祝祭なのだ。
ことば、ことば、ことば。
ことばの、
ここ掘れワンワン
ここ掘れワンワン
それがどこか。「ここ」と信じて掘りつづけるとき、詩が誕生する。
詩と批評E (1978年) 田村 隆一 思潮社 このアイテムの詳細を見る |