「油」には「物」が出てくる。すでに田村が何度か書いている。「物」。
枯れ草の細い道を歩いて行くと
「物」つくっている仕事場にたどりつく
むろん
「物」は人が作るのだが その人も
「物」にならないければ「物」はうまれない
人間が「物」になる仕事場には
どんな秘密がかくされているか
これでは堂々巡りである。なぜ、堂々巡りが起きるのか。「定義」が不完全だからである。「物」とは何なのか--その「定義」が不完全である。
「物」とは何?
「物」とは単なる存在ではない。「物」と抽象的にいわれているのは、それが「抽象」でしかいいあらわすことのできない存在だからである。「机」「椅子」あるいは「機械」という個別の名詞をもった存在ではなく「物」。個別の存在ではなく、存在を「個別」に存在させる前の、「未分化」のものが「物」と呼ばれているのだ。
何かを作るとは、その素材を破壊し(○○をつくるための「素材」という概念から解放し)、その素材の新しい可能性を引き出すということである。こういうことができるのは、こういうことをするためには、まず人間は△△という素材は○○をつくるためのもの、という概念を叩き壊さなければならない。人間が自分のもっている(自分がしばられている)概念を叩き壊し、概念のない状態=物になってしまわなければならない。概念のない状態、概念というものがうまれてくる前の状態になってしまわなければならない。そういう状態になって△△という素材を見ると(「肉眼」で見ると)、それは○○をつくるためのものという「枠」がら解放されて、何につかっていいかわからない存在になる。何につかうかという「分化」が起きていない状態、「未分化」の状態になってしまっている。
そこからしか、「物」はつくれない。
「概念なし」--これを、田村は「無私」と言い換えている。
「物」が「物」を作る
無私とはこういうことかと ぼくは観察するよりほかにない
この「無私」の「無」は「カオス」(混沌)の「無」と同じである。何もないのではなく、そこにはエネルギーはある。エネルギーを形にする定まった様式がないというだけである。様式なし、「未分化」のエネルギーだけがある。「私」は「分化」していない。「人間」そのものになっている。「肉体」そのものになっている。
この「無私」をさらに、田村は言い換えている。
「私」を滅却するためには若干時間がかかる
「私」を「滅却」した状態が「無私」である。「私」が存在しなくなった状態が「物」ということになる。「私」が「私」であることをやめ、「未分化」の「いのち」そのものになったとき、素材もまた△△という名前であることはできない。むりやりいってしまえば「無・素材」というものになる。名前のないもの、「未分化」のものになる。「未分化」のものが出会い、そこで、いままでなかった「分化」の化学反応をおこす。
核融合をおこす。
そのとき「物」は誕生する。
そして、その運動、化学反応のためには「時間」がかかる。
「時間」とは「他人」のことだ。「私」を否定する力のことだ。「私」を否定するがゆえに、それは「物」でもある。
あ、また、堂々巡りにもどってしまった……。
| 詩人のノート―1974・10・4-1975・10・3 (1976年) 田村 隆一 朝日新聞社 このアイテムの詳細を見る |