佐藤恵「ティア(みずうみ)」 | 詩はどこにあるか

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佐藤恵「ティア(みずうみ)」(「スーハ!」5、2009年05月10日発行)

 佐藤恵「ティア(みずうみ)」は、亡くなった人を送る。その静かな感じがとても気持ちよく響いてくる。

わたしたちはひとりびとりの胸に
ちいさな骨壺をさげて
今昇ってきた月光をたよりに湖を渡って行く
湖面に敷き延べられた銀の浮き布よ

重みのあるものはこの白い骨片(かけら)だけあとは捨ててきたので
かかとのまるみだけ沈んでも
ゆらめきながら渡って行くのだ

静かな摺り足のささなみ
かそけき骨の鳴き音
さぎりのような葬列

 「重みのあるものはこの白い骨片あとは捨ててきたので」という1行が痛切だ。この1行には、ふたつの文がある。「重みのあるものはこの白い骨片」と「あとは捨ててきたので」。「あとは捨ててきたので」は最初の文につけくわえた補足、理由説明である。ふたつの文の間には、論理上の呼吸がある。しかし、その呼吸をこの1行は消してしまっている。ふたつの文を密着させている。論理上は切り離せても、心情的に切り離せないからである。そのこころの動きがそのまま「肉体」を動かす。
 ここから、ことばは、論理とは違ったものを描き出す。

かかとのまるみだけ沈んでも
ゆらめきながら渡っていくのだ

 物理の論理では、人間は湖を(水面を)渡ることはできない。けれど、その「肉体」がこころであるときは、そこには「物理の論理」は働かない。そういう論理の超越を、あるいは特権ともいうべきものを、「重みのあるものはこの白い骨片あとは捨ててきたので」という1行がつくりだしている。
 改行や1行あきには、それぞれ意味があるのだ。
 「かかとのまるみ」のかかとは、骨壺を持つひとのかかとであるはずだが、論理が物理を超え、こころと「肉体」が融合したものについて語るとき、その「肉体」もまた死者の「肉体」と一体になっているような感じがする。かかとは、亡くなったひと自身の、美しいかかとでもあるのだ。
 だから「かそけき骨の鳴き音」ということばも生まれる。死者は泣かない。骨は泣かない。泣くのは、生きている人間、骨壺をもった人間である。けれども、このとき、亡くなったひとと、骨壺をもつ人間は一体になっているので、骨壺をもっているひとが泣けば、それにつられて骨もまた泣くのである。「泣かないで」といって泣くのである。
 最後の3行。これは、とても美しい。

昇りきった者たちもまた
しずくほどの重みを与えられ
おびただしい雨粒となって還ってくる

 湖の水分が天に昇り、そこで冷やされて雨粒になって降りてくる--と読めば、これは気象の動きそのままである。けれど、私には、佐藤が書いている「雨粒」は「雨粒」ではなく、「涙」というふうに感じられる。
 亡くなったいとしい人は、涙となって、佐藤の「肉体」へ還ってくる。涙を流すとき、佐藤は、その最愛のひとと「肉体」としてひとつになり、静かに交流している。