白鳥信也「バッタを食べる」、北爪満喜「もとのもとの」 | 詩はどこにあるか

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白鳥信也「バッタを食べる」、北爪満喜「もとのもとの」(「モーアシビ」17、2009年04月30日発行)

 白鳥信也「バッタを食べる」。私は田舎育ちだが、バッタを食べたことはない。白鳥の詩を読んでいると、あ、なぜ、いままでバッタを食べたことがなかったんだろうと悔しい気持ちになった。

地面を強く蹴っていた後肢は伸びきったまま固まって
晴れた空を震わせた薄く透けた翅は
油からも飛び立とうとひろがる一瞬手前で
停止している
これから飛ぶのだ
だから僕はバッタが飛びやすいように歯で噛み切る
バラバラになったバッタは僕の喉を飛び
胃袋の中を飛び
見えない空間に消えて行く

バッタのなかでは
イヌエビ、オオバコ、エノコログサ、イラクサ、ヨモギ
無数の草たらがそよいでいる
多摩川の水も波打ち

(略)

熱々の歯ごたえじゅっとこぼれる一滴
口の中に拡がるバッタにつつまれていたもの
何度も何度も
バッタは身体のそこを思い切り強く蹴って舞い上がる

 「僕」の「身体」と「バッタ」の「身体」が重なり、同時に、バッタののなかの宇宙が「僕」の宇宙になる。バッタを食べながら「僕」がバッタになる。
 最終行の「身体」が美しい。(この「身体」は、私が何度もつかう「肉体」のことだと思って読んだのだが。)そして、その「身体の底を思い切り強く蹴って」の「底を」が、さらに美しい。「身体」には「底」がある。その発見が美しい。
 「僕」と「バッタ」が重なるのは、「底」で重なるのだ。見えるものを食べる。そして、生きる。動き回る。その「いのち」の基本的なありよう、そこからはじまる「自由」。それが「身体」として重なる。どんな「いのち」も「底」までいったん降りて、そこからふたたび別々の方向に進み、その結果として、ある「いのち」は人間になり、ある「いのちは」バッタになり、また別の「いのち」は草になる。「未分化」の「いのち」が「底」なのだ。
 それを自分の歯で、口で、胃で、味わえるのはなんとすごいことだろう。

 ただし。
 実は、不満がある。

見えない空間に消えてゆく

 という1行である。どうして見えない? それが私には、わからない。次の連(4行)で、きちんとバッタの飛んでいる世界を描いている。そこへ飛んで行ったのではないのか。
 で、この1行ゆえに思うのだが、もしかしたら「僕」はバッタを食べたことがないのではないのか。それは「イヌエビ、……」の行への不信感につながる。私はバッタのことは知らない。草のこともよく知らない。知らないけれど、バッタと「ヨモギ」がぴんとこない。私が知っている草は「ヨモギ」だけなのだが、バッタって、ヨモギを食べる? 食べないヨモギのことをバッタは思うだろうか。
 バッタを食べたことがあれば、たぶん、もっときちんとしたことが書ける。バッタをつかまえて食べる人ならバッタが何を食べているかも知っている。バッタを実際につかまえて食べている人の感想が聞きたくなった。



 北爪満喜「もとのもとの」は、白鳥が「身体の底」のことを「もとのもとの/ねもとの/ところ」と呼んでいる。アザラシの飼育係、手の傷、食べるということが「いのち」につながっていく。

傷という意識を捨ててみた
捨ててしまえば痛みだけになる
(略)
痛みが差すごとにすばやく動かし
消して
掃除をする
消して
食べるものを造る

変わらない
飼育員さん
生き物の
もとのもとの
ねもとの
ところ

傷口の赤が反射する
食べさせてくれたこと
食べきてたこと

もとのもとの
ねもとのことろ
痛かったこと
うれしかったこと
光も水も流れ着いて

チチハハのハハも
もう死んでしまった
人と 眠りのなかで
穏やかに出会う

 「いのち」の重なりあいを、北爪は「出会い」と呼んでいる。そこでは「痛かったこと」「うれしかったこと」の区別はない。同等である。「死ぬ」ことが「いきる」ことである。



青い影・緑の光―北爪満喜詩集 (現代詩人叢書)
北爪 満喜
ふらんす堂

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