「乳」というタイトルでまとめられている2篇「月は東に日は西に」と「乳」はともにことばをつらぬく緊張感が気持ちいい。「月は……」はタゴールの詩を引用しながら、ネパールからヒマラヤを見た時のことを思い出している。
夕暮れ
満月は東の空 マナスルのあたりから
ゆったりと昇ってくる
燃えるような夕陽が西にむかって落ちて行き
空は茜色の夕焼け
ここでは言葉はまったく不要である
詩的世界が眼前にある 刻々と変化する色彩と言葉のない歌
リズムは体内を循環する血液だけで充分だ
この部分が「乳」と呼応する。
まず
生まれてはじめて人間が口にするのは
生温(なまぬる)い白色の液体
その味も匂いも忘れた
人間は一本の管(くだ)にすぎない
ということが身に沁みて分かるのは
白色の液体のおかげだ
この不定形の液体が言葉に造形されて行くのには
四、五年はかかる
液体が口唇 舌 咽喉 食道 胃 そこまでは
音の世界だ それから
小腸 大腸 直腸にいたる天国と地獄のフル・コースを味わいながら
音から文字へ
文字から意味へ さらに逆流して
舌に回帰してくると政治的言語になるから
不思議である
「詩的世界」は目の前にある風景、刻々と変化する色彩だけでは不十分である。それに「体内を循環する血液」の「リズム」が必要である。この「体内を循環する」ものとして、「乳」がある。「乳」そのものは、口から入り、食道、胃、小腸、大腸ととおって排泄される。それは「循環」しない。「循環」は、ことばによってはじまる。ことばで、「口唇」→「直腸」までをたどるとき、そのことばは「乳」とは逆に、舌先から出てくる。このときの「リズム」をつくるのが「血液」である。
これはまた、「ことば」そのものが人間にとって「肉体」である、ということでもある。「ことば」が「血液」となって「肉体」を循環し、そのとき、「肉体」はことばのままに、あらゆるものに変化する。
その変化というのは、田村が引いているタゴールことばそのものの世界である。
「私の髪の毛が灰色に変りつつあるなどは取るに足らぬ些事
私はつねにこの村のいちばん若い者と同じだけ若く、また一番年とった者と同じだけ年とっている
ことばは、その運動は、「若い者」と「年とった者」を区別しない。ことばの運動には、「若い」「年とった」はないのだ。「肉眼」にとって、その視界をさえぎるものがないように、生きたことばにとって、その運動をさまたげる障害物などない。あるのは「血液」のリズムのように、なまなましく直接的な「いのち」だけである。
あるいは、逆に言うべきなのか。
詩にとって必要なのは「意味」ではなく、「肉体」の「リズム」だけであると。ことばが「意味」を叩き壊し、「意味」を放棄して、「リズム」そのものになるとき、それは詩になる。
その「原始」の「リズム」を、田村はこの詩集のなかで探している。複数の詩をぶつけあいながら、「意味」をではなく、「リズム」を探している。
だから、ほんとうは、私がいま読んでいるような読み方でこの詩集を読んではいけない。もっと、他の読み方をしなければならない。
わかっているけれど、しかし、私には、それができない。
Do it!―革命のシナリオ (1971年) 田村 隆一,金坂 健二,ジェリー・ルービン 都市出版社 このアイテムの詳細を見る |