「カンナ」という作品がある。そのなかで、進は詩と絵を比較している。
ゴッホは一体どれほどの ひまわりの絵を描いたことか それらのひまわりは皆 それぞれに一つのひまわりで 決してひとまとめにした一つのひまわりではない 勿論それぞれのひまわりはそれぞれに多少とも違って描かれているにしてもである しかし私のカンナの詩は一体どうなのだろうか 何篇書こうとも 私にはそれはすべて同じ一つのカンナの詩のように思われてならないのである 例えそれらがそれぞれに違うように書かれていても それらはそれぞれ一つの作品ということにはならずに 全然違わない同じ一つの作品という気がしてならないのである
あ、おもしろいなあ。おもしろいことを考えるなあ、と私は思った。そして同時に、進はひとつとんでもない勘違いをしていると思った。
進はゴッホのひまわりの絵を「鑑賞者」として定義している。一方、「カンナ」の詩については「作者」として定義している。判断の基準が二つある。これでは何かを比較したことにはならない。比較というのは「一つの基準」からおこなわないかぎり、どうしたって複数の「答え」が出てしまう。
ゴッホにしてみたって、ひまわりは何枚描こうと「1枚」なのである。そして、その「1枚」は、永遠にたどりつけない「1枚」である。その「1枚」にむかって、あらゆるひまわりが動いていく。
進がどれだけ「カンナ」を書いても、そのむこうに永遠に書けない「1篇」のカンナがあるのと同じように。作者を基準にすれば、作品というのは、いつも永遠に書けない(描けない)「一つ」をめざしている。
その「一つ」をどこからとらえるか。作者か、鑑賞者か。そして、そのときの「基準」は? 存在か、運動か。
私は「何を」という「存在」として作品を見るのではなく、そこでどのような「運動」がおこなわれているかを、いつも基本に考えたいと思っている。
ゴッホも進も、その創作活動を「運動」という基準でとらえ直せば、同じになると思う。いくつかの「ひまわり」(絵)、いつかの「カンナ」(詩)。それは皆、それぞれに作者のなかにある「永遠のひまわり」「永遠のカンナ」へ向かって動いている。「永遠」にいたる道はひとつではない。複数ある。だから作品はいくつも描かれる。いくつも描かれるからそこには必ず差異は生まれる。けれど、その差異は、それぞれの作品を個別化するだけではなく、逆に、差異を含むことで「同じもの」をめざしていることを明確にする。複数の差異がたがいにぶつかりあいながら、まだ描かれていない「永遠のひまわり」「永遠のカンナ」という存在を浮かび上がらせる運動をするのだ。
進はおびただしい数の著書を出版している。この詩集には付録として、その「目録」がついていた。私は面倒なので、その数を数えなかったが、たいへんな量である。
なぜ、進はこんなにたくさんの詩集を出す? それは、やはり進の描こうとしている「永遠」が描けないからだろう。書いても書いても「永遠」にたどりつけず、その結果として、すべてが「永遠」にはたどりつけなかったものという「一つ」になってしまう。そういう気持ちがどこかにあるのだと思う。そして、この気持ちは、書けば書くほどつよくなるものなのだと思う。ひとはいつでも、そうやって矛盾を生きるしかないのだとも思う。これは、どれだけ矛盾をかかえこむことができるかによって、「思想」の広がりがでてくるかがきまるということにつながるのだが、ちょっと説明が面倒なので省略。(私が、何度も何度も、「矛盾」ということばをつかうのは、その「矛盾」を評価しているから。「矛盾」ということばを私はよくつかうが、私はそれを否定的な意味ではほとんどつかわない。そこに肯定すべきものがある、それをはっきりさせたいというときにつかう。)
ひとは何を描いても、どんなに自己から逸脱していっても、どこかで「一つ」のものとつながってしまう。これは、どうしようもない「真実」のように私には思える。
「ある旅のこと」に、とてもおもしろい行がある。「奥の細道」をたどる旅に出たくなったのだが、それがかなわず、芭蕉の生地、伊賀を歩いた、と書きはじめる詩の2連目。
伊賀はまた 横光利一の縁の地でもある
私は氏の中学時代の逸話のある伊賀上野城の高い石垣に立ち
それから柘植の町を歩いた
ひところ凄く好きな作家だったが
ある時 何故か違うところへ行くように感じられて
ついつい離れてしまっていたのだが
それでもやはりどこかで引かれていたのだろうか
どんなに離れても、どこかで惹かれる。そういうふうにしてつづいていく運動がある。それは、膨大なことばのなかで、あるときふっと見えてくる何かである。ゆらぎながら、ゆらぎのなかで、「一つ」になる。
進は、この詩集では、そういうことがらを「無意識」に書いているように思われる。とても「正直」になった。「正直」な進が、静かに歩いている--そう感じさせる詩集である。
この詩は3連目で、戦争で死んでしまった友人のことを書いている。芭蕉、横光利一、友人と、追いながら「心の旅」をしている。その動きがとても「自然」で、その自然さのなかに「正直」をつよく感じた。
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