『田村隆一全詩集』を読む(74) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


 田村の改行、あるいは連の構成(1行あき)のあり方、連から連への移動は、「散文の論理」からみるとずいぶん逸脱している。
 「海の言葉」にも、その「逸脱」がある。

あの
黒い土の下には
どんな色彩と音楽が流れているのだろう?
乳白色の 緑色の
血液のリズム
北半球の星座の燃えつきるまで透明な
光のリズム
球根からおびただしい芽がのびてきて
そののびてくる緑色の芽の爪が
人間の指や毛髪にからみつき
驟雨が走り去ったある朝
だしぬけに花が開くのだ
乳白色と緑色の血液でつくられた
深紅の鐘形 人間の目にも見える鐘の


それから

海にむかって毛細血管のような
細い道
を歩き江戸時代からの床屋の裏をぬけると
相模の海がゆるやかにひろがっていて
伊豆半島までは見えるが
大島は春風ととともに水平線から消えて

濃紺の海が もうエメラルド・グリーンに
変ってしまって 変らないのは
人間だけかしら?
ぼくらの遠い先祖は海で生まれたというのに
海の言葉 桜貝のささやきが
聞きとれるのは
犬だけかもしれない

 1連目は、何の花か具体的にはわからないが(私にはわからないが)、花が開く様子を描いている。「乳白色と緑色の血液」は植物を描写する時、田村が何度もつかう表現である。
 春がきて、花が開いた。鐘の形の花である。
 そのときの花の内部の運動、土と花とのかかわりを、田村は1連目で書いている。ディラン・トマス、エリオットの詩と通い合うものを感じる。「緑色の導管」あるいは「四月は残酷な月」。
 田村独特な感じがするのは、1連目の最後の「音」である。その前の行からつづけて読むと、「人間の目にも見える鐘の/音」。「目に見える音」という感覚の融合、「肉眼」が聞いてしまう「音」に、田村の個性、「肉体」を感じる。
 1連目は、変ないい方になるかもしれないが、すでに知っている田村である。いままで田村の詩について書いてきた感想を書き換えなければならないようなもの、追加すべき感想があるとは、私には思えない。
 ところが、その後の連の展開がとても不思議である。2連目。たった1行。

それから

 この「それから」は何だろうか。なぜ、独立しているのだろうか。
 「それから」を独立させず、前後の1行あきを取り除くとどうなるのだろうか。
 「主語」の変化に、混乱する。
 1連目の「主語」は何の花かはわからないが、ともかく「花」だ。ところが、3連目は「花」ではない。「細い道/を歩き」ということばからわかるように、「ぼく」である。「ぼく」が細い道を歩き、海へ歩いているのだ。そして、海を見るのだ。
 もちろん1連目も「ぼく」が「主語」であり、そこには「ぼく」が見ている「花」(「ぼく」が見た「花」)が描かれていると言えるのだが、そのように考えた場合でも、その見ている対象が「花」から「海」へ動いていくその移動のきっかけが

それから

 というのが、さっぱりわからない。なぜ、それから?
 これは、たぶん、田村にもわからない。
 「花」について書いてしまった。もう、書くことはない。「それから」何を書くべきか。わからないので、中断する。きままに、ことばを離れ、散歩することにする。すると、再び、ことばが動きだす。
 「海にむかって毛細血管のような」の「毛細血管」には「乳白色と緑色の血液でつくられた」ということばが通ってきているし、「黒い土の下」の根(花の、草の、根)もつながっている。その細い根のような、「細い」道を歩いて海へ向かう。そのとき、ことばが動きだす。
 このとき、とても不思議なことばが田村の詩の全体を動かす。

江戸時代からの

 これは、単に道に面した床屋が「江戸時代」からつづいているといえばそれだけのことなのだろうけれど、こいういうときに、突然「江戸時代」がでてくるところに、田村の個性がある。
 「江戸時代」がでてくることで、この詩は、「花」の詩から、突然「時間」の詩へと転換するのである。「花」の描写も実は「時間」の描写だったということがわかるのである。「それから」は、「花」を描写したときにかすかにつかんだ「時間」の何かを、その「花」のなかだけではな表現できなくなって、別な次元で展開するための飛躍の、そして、その飛躍をつくりだすための「間」なのである。
 「花」は、芽から蕾、花へと変わる。そして、変わるけれど、その変わるということ自体は「時間」のなかでは変わらない。花の成長自体は「時間」のなかで繰り返される普遍である。「時間」のなかには、「かわるもの」と「かわらないもの」があり、それが同じように「間」をつくる。
 だが、それをどう「論理」として、展開できるだろうか。「哲学」として、他人と共有できる形で言語化できるだろうか……。
 田村は、それをうまく展開できない。「大島は春風とともに水平線から消えて」と中途半端にことばを終えて、もう一度、1行あきをもってくる。断絶を、「間」をもってきて、その断絶を乗り越えていくことばの力に頼る。

 ことばは中断する。
 「論理」のことばは、そこで終わるのだけれど、詩のことばは論理ではないから、その中断を乗り越えてあふれていくことができる。「間」をそれがなかったかのように乗り越えていくのが、詩、のことばである。

 「江戸時代」ということばとともに、田村は「時間」に触れる。「江戸時代」も抽象的といえば抽象的なのだが、そこに床屋という具体的なものが存在することによって、何か、具体的なもののように「肉体」に迫ってくる。その「肉体」のてざわりを頼りにして田村は、ことばを動かしているように感じられる。
 「時間」とともにかわるものと、かわらないものがある。
 人間は? 人間は、どんなふうにかわるのか。かわらないのか。
 人間は海から生まれた。海から変化をつづけて人間になった。その変化のなかの「時間」。そして、変化してしまったために、もう海のことばが聞きとれない。そのとき「時間」の「間」と、人間と海との断絶の「間」が重なっているのか、いないのか……。

 田村は、その「間」をぴったりと重ね合わせたいと願っている。「時間」によって押し広げられた「間」。それをどうやって解体すれば、「いま」と「太古」がぴったりと重なり、その瞬間に、たぶん人間は、もういちど生まれ変わることができる--そんな夢を、このことばの運動のなかに託している。



 「それから」という1行。どんな論理の展開も拒絶して、ただ飛躍するためだけの1行。ことばを論理にとじこめるのではなく、論理からあふれださせるための1行。
 田村はいつも、論理からあふれだしていくことばを書こうとしているようだ。
 矛盾→破壊というのも、何かをあふれださせるためである。「いのち」を、と、私はとりあえず呼んでおくのだけれど。



インド酔夢行 (1981年) (集英社文庫)
田村 隆一
集英社

このアイテムの詳細を見る