『田村隆一全詩集』を読む(71) | 詩はどこにあるか

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 「雪は汚れていた」のなかに「ぼく自身が行方不明だった」ということばがある。探偵小説の編集をしていたころのことを描いたものである。

そうだ ぼく自身が行方不明だった
ブロンドの美人には活字の世界でしかお目にかかれない
タフでハンサムな探偵は
神田多町(たちょう)にはいなかった みんな栄養失調のような顔をして
葉巻をくゆらしているアメリカの大金持ちと裸体を毛皮でつつんだ
美女の活字の世界のなかで労働していたのだから
低賃金の労働と性的な夜間飛行の
香水の匂いとは水と油である

 この「行方不明」は、きのう読んだ詩とは別の意味での「不定型」である。田村が訳出している探偵小説のどのような「動詞」とも無関係である。探偵小説のなかの「動き」と重なり合う動きが田村自身のなかにない。探偵小説のなかのことばは田村の「動詞」になることはない。ことばと田村が重なり合わないということである。
 田村は、ことばを通して「変身」する。そのことを間接的に語っている。

朝鮮戦争がやっと終って
特需の反動で日本はと不況に見まわれる
「彼女はティッシュ・ペーパーで涙をぬぐった」
原書にもそうあるが
だれもティッシュ・ペーパーを見たことがない
辞書ひいたって
薄葉紙
としか出ていない

 どのような「動詞」となることもできないまま、探偵小説を訳している。そこでは、「世界」は「ひとごと」である。
 そういう状態のままでは、人間は存在することができない。ことばと分離したままでは、人間は、少なくとも田村は、生きていけない。
 田村は、ことばと、美しい和解を試みている。その部分が、私はとても好きだ。

The night was young and so was he,
The night was sweet but he was sour.

「幻の女」の二日酔いの青年みたいに
ぼくは焼け残った銀座裏の裏通りをフラフラ歩いていたっけ
「雪」
という小さなバーがあったので
ぼくは扉をおして中に入った
美しいマダムがただ一人
ポツンと坐っているだけ 客はいない
彼女の中にある雪
ぼくの中にある雪
その雪の色を想像しながらウイスキーを飲みつづけて
ぼくの黒いコートのポケットには
ジョルジュ・シムノンの殺人小説
「雪は汚れていた」
が入っている

 「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」。この2行の「なかにある」という状態が「不定型」としての人間のありようなのだ。つまり、「ぼくの中にある雪」の「雪の色を想像する」とは、実は、その「雪の色」に「なる」ことだ。そして、この「なる」が「変身」(変形)である。
 「夜は若く、彼もまた若かった/夜は甘かったが、彼は酸っぱかった」という生き方、生存のあり方が田村の「動詞」となるように、「雪」、いま、ここにない雪になって、バーで酒を飲む。
 青春の一こまの描写--ただ、それは単なる描写ではない。「変身」の具体的な報告である。

 そして。

 と、私が、これからつづけて、書くこと。「そして」という接続詞でつないで書くことは、とんでもない空想、誤解かもしれないのだが。
 田村が引用している英語の2行のなかの「was 」(be動詞)と「ぼくの中にある雪」の「ある」、そして「なる」の交差(重なり具合)が、私には、とても興味深く感じられる。
 be動詞は主語の状態をあらわす。夜は若かった、そして彼も若かった/夜は甘かった、けれど彼は酸っぱかった。それは若いという状態に「ある」(あった)、甘いという状態にあった(ある)、酸っぱいという状態にあった(ある)ということだろう。この2行目のbe動詞は「なる」とは訳せないだろうか。
 ハムレットの「to be, or not to be 」と同じように、それは「ある」と同時に「なる」とも訳せるのではないだろうか。「どうあるべきなのか、どうあるべきではないのか」であると同時に「どうなるべきか(生きるべきか)、どうならないべきか」。「大人になったら何になる?」というときの「なる」はbe動詞である。「ケセラセラ」には「When I was just a little girl /I asked my mother what will be」という用法がある。
 英語では「ある」と「なる」が重なり合う。
 同じようにも、日本語でも「ある」と「なる」が重なり合うときがある。「彼女の中にある雪/ぼくの中にある雪」の「ある」は、「その雪の色を想像」するとき、「なる」と重なる。
 --ここには、「翻訳」を生きた美しい「成果」のようなものがある。美しい「影響」がある。私には、そんなふうに見える。


泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

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