野樹かずみ、河津聖恵『わたしたちの路地』 | 詩はどこにあるか

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野樹かずみ、河津聖恵『わたしたちの路地』(澪標、2009年01月30日発行)

 野樹かずみの短歌に、河津聖恵の詩が応じるという形で、この作品群は出発する。

 早朝はいちばん安い塩パンもまだあたたかい涙のようだ

塩パン、そこから何を想像できるか

たった一個の固いパン、そのざらざらとしたぺったんこの
つねにいつもさいごの晩餐

一人の少女を想う
草履の足を動かしてみる

 この出発は、少し危険である。「いちばん安い塩パン」「あたたかい」「涙」。「つねにいつものさいご」 「少女」。そして、それを結びつける「想像」ということば。あらゆるものは「想像」のフィルターを通ると「抒情」になってしまう。「抒情」に「涙」(しかも、あたたかいと通い合う「涙」)が結びつくと、もう行く先は決まっている。
 けれど、この「想像」を、野樹の現実から出発する「短歌」、その破調が、破調の勢いで破っていく。

 廃材の小屋がひしめきあう路地の水溜まり 朝の光がゆれる
 大きすぎるパパのぼろ靴からのびるほそい足まるい腹はだかんぼう

 この破調、現実がことばを破壊するエネルギーの前では「想像」はあまりにも抒情的でありすぎる。
 河津は、この暴走に向き合うために中上健次の故郷をたずねている。野樹がフィリピンの現実と向き合うのに対して、河津は中上の現実と向き合う。ふたつの「場」をつなぐものは「路地」である。
 
路地はいたるところにある
私たちの世界に脈打つひそやかな静脈の青の葬送

 そして、ふたりは互いに互いの文体を破壊し合う。新しい自分と出会うために。それはそれで、たぶん、意義のあることなのだと思う。
 野樹の

蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅蠅蠅、、、蠅、

 という短歌は、とても好きだが、気がかりなのは、この二人の往復文学作品(?)をささえている「愉悦」が、フィリピンや中上の持っている「愉悦」とは違うような気がすることである。
 私はフィリピンも中上の故郷も実際には知らない。知っているのは中上の作品の中に出てくる「愉悦」だけである。中上の作品にはすべてのものをとろけさせる「無時間」の「愉悦」がある。死んでいくことの「愉悦」がある。いのちの中でいのちが死んでいくことの、清らかさがある。
 ふたりのことばのなかでは、「蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅、蠅蠅、蠅蠅蠅、、、蠅蠅蠅、、、蠅、」にはそれを感じたが、ほかではどうもその手触りがない。どこまでいっても「想像」がどこかに紛れ込んでいるような感じがする。
 「愉悦」がふたりのなかで完結してしまっているという印象がある。「ここまで、自分を破壊しました、変えてみました」と喜び合っている感じがする。「作品」のタイトルの「わたしたちの路地」が、ほんとうに、野樹と河津のふたりの「わたしたち」という感じがどこかに残る。

 私は、野樹の作品は、今回読むのが初めてである。河津のことばは読んだことがある。河津の変化に、私がとまどっているだけなのかもしれないけれど。

christmas mountain わたしたちの路地
野樹 かずみ,河津 聖恵
澪標

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