『ハミングバード』(1992年)。「亀が淵ブルース」の3連目、4連目が、私はとても好きである。
私がね、子どものころは蛇の棲家でしてね
ええ、二階堂の草っぱらのことですよ
マムシはむろん
シマヘビ ヤマカガシ 脱皮する前の
青大将ときたらノタリノタリしているだけで
その連中が草むらからいっせいに
動きだすんです
春 冬眠からさめたばかりだから
そりゃあ 鮮かなもんでした
二万坪の草原が波立つんですよ
どこへ?
ほら 細い川が流れているでしょ
亀が淵というんですけどね
亀はたくさんいましたけど スッポン ウナギまで遊んでいて
蛇の大群は
カエルを狙って走り出すんです
カエルのコーラス
カエルのタンゴ これがルンバになると
危い
引用したのは3連目。田村自身のことばではなく、「この土地で生れ育った六十男/海軍のゼロ戦乗りの生き残りが/ぼくに語ってくれた」(5連目)をそのまま再現したものである。
田村は、その男の語ったことばに手を加えていない。(と、私は感じる。)なぜ、他人のことばをそのまま引用して、田村の詩にしたのか。田村は、そのことばが「肉眼」から発せられていると感じたからだろう。そのことばが、そして田村の「肉眼」を活性化させる。男の語ったことばを聴きながら、田村の目は「肉眼」になって、草むらが動くのを見る。実感する。
「他人」のことばの、その「他人」性が、田村の「肉眼」を目覚めさせる。それはユトリロの「白」が田村の「肉眼」を目覚めさせるのと同じである。田村の五感を超越しているもの--その超越性が「他人」である。
これは、逆に言えば、もしことばが五感を超越した状態に達すれば、それは自分が発したことばでも「他人」のことばになる、自分を超越したものになる、つまり詩になるということでもある。
詩とは「他人」のことばなのである。
「他人」のことば、新しいことばであるからこそ、そこに詩がある。たとえば、
そりゃあ 鮮やかなもんでしたよ
この一行の「鮮やか」ということば。
教科書で教える「詩」(学校教育の詩)では、たぶん「鮮やか」な状態を「鮮やか」ということばをつかわずに書き表すのが詩であると定義されるだろう。(文学のことばだと定義されるだろう。)
だが、この六十男の発した「鮮やか」は、ふつうの目が感じる「鮮やかさ」とは違っている。
「肉眼」がつかむ「鮮やかさ」だ。同じ「鮮やか」という表記であっても、そこに書かれている実体が違うのである。その「鮮やか」とは蛇が群れをなして動いていくとき、その動きにあわせて草が動く、その動きをあらわしている。そういうものを「鮮やか」と呼んだひとはいない。(私は、そういうことばを読んだことがないし、たぶん田村も読んだことがないのだと思う。だから、そのまま書いている。)
そこでは、草の動きさえ、「他人」なのである。蛇がいっせいに動くという世界そのものが「他人」なのである。
「肉眼」が「他人」なら、その「他人」の耳も「肉耳」になる。カエルの声が(合唱が)、平和なものから、蛇の襲撃を知って、トーンを変える。「タンゴ」が「ルンバ」にかわる。この変化をとらえる「肉耳」。
「肉体」そのものが、ここではかわっていく。そして、それにあわせて「世界」が「鮮やか」になっていく。
「他人」のことばにあわせて、自分自身が「他人」になっていくのを受け入れている田村がここにいる。そういう田村のありかたを、私は「正直」だと感じる。
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