木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」ほか | 詩はどこにあるか

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木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」、渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」、三井葉子「からす」ほか(「楽市」65、2009年04月01日発行)

 木村草弥「ヤコブの梯子(はしご)」はさまざまな「語り直し」である。

 或る日。
外がやかましいので出てみると
地上から一本の軌道が
エレベーターを載せて
天井の宇宙静止軌道の宇宙ステーションまで
伸びていた

それは
まるで「ジャックの豆の木」のように
亭々と立っていた
上の端は雲にかかって
よくは見えない高さだった。

 このあと、「聖書」から「ヤコブの梯子」が引用され、つづいて芥川龍之介「蜘蛛の糸」が要約される。さらにつづいて、

軌道エレベータの着想は
宇宙旅行の父-コンスタンチン・ツィオルコフスキーが
1895年に、すでに自著の中で記述している。

静止軌道の人工衛星から地上に達するチューブを垂らし
そのケーブルを伝って昇降することで地上と宇宙を往復するのだ。
全体の遠心力が重力を上回るように、反対側にも
ケーブルをのばして上端とする。
軌道エレベータを建設するために必要な強度を持つ
カーボンナノチューブが発見されたことにより実現したのだった。

 「夢」を、コンスタンチン・ツィオルコフスキーの夢が「スペースシャトル」という形で実現に近づいているいま、その彼の夢と重なり合うものを、「ジャックと豆の木」「聖書」「蜘蛛の糸」と重ねてみる。
 そうすると、そこに、人間の想像力の不思議さが見えてくる。
 ひとは、どれだけ突飛なこと(?)を考えようと、どこかでつながっている。なぜ、ひとは、そんなふうにして重なり合うのか。
 そのことを木村は、「解説」しようとはしない。そこが、おもしろい。
 木村は「解説」のかわりに、「重ね合わせ」をていねいにやる。人間のことばは、常に、誰かの語ったことばの語り直しであるということを知っている。語り直す時、そこはなんらかの個人の思い、体験がしのびこみ、ずれができるのだが、そのずれの存在が逆に、離れているものを引き寄せる。ずれているから重ならないのではなく、ずれているから重なっている部分があることがわかる。ずれが増えるたびに、重なり合う部分もまた増えるのである。
 私は不勉強なので木村の詩を読むのははじめてなのだが(だと思う)、とてもていねいな思索をもとにことばを動かしていく詩人なのだと思った。新しい哲学を作り上げるというよりも、すでに語られた哲学を、ていねいに自分自身のものに消化して、ことばを鍛える詩人なのだと思った。



 渡辺兼直「達磨 暁(キョウ)斎の眼力を睨む」も語り直してある。河鍋暁斎の「吉原遊宴図」をことばで語っている。
 その後半。

折しも
床の間にありて
達磨大師
画中より身をのりいだし
われ つまらぬ修行に熱中いたし
手足を失ひしかども
人間とは
げにおもしろき動物であることよ

 「達磨大師」が吉原の一情景を目撃して、そんなことを、いうかなあ。いわないね。これは達磨大師に託して語った渡辺自身の思いである。そして、そこには当然「ずれ」がはいってくる。「ずれ」は意識すると、つまり「わざと」書くと、批評になる。「われ つまらぬ修行に熱中いたし」というのは、いいなあ。思わず笑ってしまう批評である。そして、思わず笑ってしまう時、たぶん、達磨になれない多くの人間が重なり合うのである。つながるのである。
 渡辺のことばには、時間をかけて鍛え上げてきたスピードがある。漢文と俗語(口語)のすばやい行き来があり、思わず見とれてしまう。



 今回の号にかぎらず「楽市」ととても充実している。
 今号には、谷口謙「自宅の廊下」もとてもおもしろかった。検視医(という言い方でいいのだろうか)の体験を書いている。死亡時刻をつきつめていくと、どうも死者が死んだ時間が、家族が彼を自宅の廊下へ運ぶ前だったらしい。酔って帰って来たと、家族は思い、とりあえず自宅の廊下に寝かせたのだが……という体験を書いているようなのだが、そのことばが、実にていねいなので、まるで1回かぎりのことなのに、何度も何度も語られてきた人間の「運命」のような、不思議な強さを感じさせる。
 司茜「ポケットの中の」は梶井基次郎「檸檬」と「八百卯」のことを書いたものだが、そのことばも、「檸檬」の別の角度からの語り直しであり、やはりことばがていねいで時間の手触りを感じさせる。
 三井葉子「からす」はカラスの「かあかあ」という鳴き声をきいて、それを語り直しているうちに芭蕉へ「ずれ」ていく。

あかあかと日はつれなくもあきのかぜ
というけしきが好きだった

つれて行ってよ
あかあか

抱くふりをして
抱いているふりをして


なんミリかくらいのわたしを
そのなんミリかくらいの杖の先で
押さえて


そんなら
わたし

かあかあ

泣く。

 「あかあか」と「かあかあ」。音楽の中で出会う「いのち」がある。


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