(51、の補足として。あるいは51の最後の部分の改訂)
<物>は「人間」である。というより、田村は「人間」を「物」としてとらえたい願望を持っている。「人間」を「物」としてとらえたい--というとき、それは「観念」に変質する前の状態としてとらえたいということである。
人間は「肉体」と「観念」でできている。そこから観念をはぎりと、「人間」だけにしたい、という欲望を生きているということもできる。「肉体」に出会いたい。「肉眼」になりたい、という欲望を生きている、と言い換えることもできる。
きのう読んだ「物」の最後の方の部分。
<物>に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
<物>の音と光りと色彩が沸きたっている
この<物>は「人間」と置き換えることができる。
「人間」に会いたくなったら
渋谷のパルコ通りへ行くことだ
銀山も葡萄畑もないかわりに
抽象的な情報市場だけはあふれていて
「人間」の音と光りと色彩が沸きたっている
そして、このとき「音と光りと色彩」は「観念」である。「抽象的な情報市場」の「情報」と呼ばれている「観念」、そのさまざまな形態。そこには「肉眼」と「肉体」がないのである。「肉体」「肉眼」の不在がある。
けれど、その「肉体」「肉眼」の不在を通してしか、田村は「人間」そのものに会えない。出会えない。
「肉体」「肉眼」の「不在」--その「不在」を破壊し、解体してしまうことが「肉眼」になることなのだ。そのために「詩」を書いている。
いつでもそうなのだが、田村のことばは、「矛盾」のなかで輝いている。「不可能」のなかで爆発している。
「物」の最終連。
昨夜は<物>のために詩を読んで聞かせてやったのに
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり
「詩」を「人間」のために読んでやる。「観念」に汚染された「きみ」のために詩を読んで聞かせる。すると、
きみの反応といったら遠いところを見るギリシャ奴隷の
あかるい目の色そっくり
これは、実は逆説に満ちた「肯定」である。「きみ」の姿を肯定している。ここに田村の「夢」がある。田村は田村のことばを「ギリシャ奴隷」のように受け止めてもらいたいと夢見ている。「ギリシャ奴隷」と定義されているのは、「祝福」「罰」と無縁の、「鞭の痛みを感じられる」「皮膚」をもった「いのち」のことである。
「きみ」は、「観念」とは無縁のまま、田村のことばと「交感」しているである。「あかるい目」で「交感」している。「肉体」「肉眼」で「交感」している。
これが実際にあったことか、なかったことかわからないが、いずれにしろ、それが田村の至福の一瞬である。
人間を「物」の状態に還元したい--人間を「物」として書きたいという欲望は、『奴隷の歓び』にあふれている。「帽子の下に顔がある」の書き出し。
<物>Aが
細くて暗い急階段をのぼって
<物>Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった
このときの<物>は書かれていなくても、その内容というか、書かれていることがらにかわりはない。「意味」にかわりはない。
Aが
細くて暗い急階段をのぼって
Rの寝室に入ってきたのは
昨日の夕方だった
と書き直しても、「意味」にかわりはない。
だからこそ、「わざと」書き加えられている<物>という表現に「詩」がある。田村の思想がある。
なんとしてでも「人間」を「肉体」「肉眼」の状態に解体したいという欲望が、この<物>に潜んでいる。
おれたちは
あくまで天動説の世界を生きている
太陽は東から昇り西に沈む
肉眼で見えるものだけがおれたちの
論理の根拠だ
「人間」は「観念」の操作で「真理」をつかみ取る。たとえば「地動説」。たしかに、それは「真理」である。だが、人間にとって必要なのは「真理」だけではないだろう。「真理」を超えた「誤謬」が人間には必要な時もあるだろう。
「真理を超えた誤謬」というのは「矛盾」である。そんなものは存在しないのだけれど、そういう矛盾でしかいいあらわせないなにかが人間を突き動かす。そしてその「真理を超えた誤謬」をつかみ取るのが「肉眼」「肉体」なのだ。
「真理を超えた誤謬」にたえとば、「恋」がある。「恋歌」のなかの、「男奴隷の歌」の最後の部分。
それでも
恋がしてみたい
それでも愛をささやきたい
言葉なんか無用のもの
目と目で
生命が誕生するだけ
「目と目で」は「肉眼」と「肉眼」の出会いである。そこから「生命」が誕生する。「肉体」が交わる時、「肉体」を超越した「交感」がある。それは「生命の誕生」という「真理」に結びつくのだが、その前に、「肉体を超越した交感」という「誤謬」がある。その「誤謬」なしに、いのちは誕生しない。
詩に悲しみがあるとすれば、それは、ことばでことばを否定しないことにはことばにたどりつけない、ことばの「肉体」、ことばの「肉眼」にたどりつけない、という「矛盾」を生きるしかないということだ。
「言葉なんか無用」と、詩人はことばでいうしかないのである。
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