『田村隆一全詩集』を読む(48) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 「「つるべ落し」注釈」という作品がある。

「七里が浜より夕陽を見る」という
短詩を鎌倉のタウン誌に書いたことがある


 という2行ではじまる。長い詩である。そして、肝心の(?)「つるべ落し」は出てこない。
 2行のあと、ことばは夏にもどる。


夏には
諸生物の性の歓声で渚は満たされているばかり
おれは
足音をしのばせて古い民家の路地裏ばかりを歩いたものさ


 途中省略して、2連目の書き出し。

人間の精神はおれが生まれた一九二〇年代で崩壊しはじめている
小動物や海鳥や魚たちに歴史がないのは神のイロニイかもしれない
進化だけあって歴史がない
ということは
ダンテの「地獄篇」だけしか読まない青年にとって
すばらしい倦怠かもしれない。


 これが、「注釈」? 「つるべ落とし」となんの関係がある。ことばは方々動き回って、居酒屋で「ぼく」は老医師と出会う。


ふるえる手で安ウイスキーを飲んでいたっけ
あれでは静脈注射だって打てないだろう

 という感慨にまでたどりついて、そのあと、とつぜん「つるべ落し」が出てくる。そして、最後は、

つるべ落し
鎌倉には十二世紀以来の
十井があるけれど
どの井戸にも もう
つるべなんかはありはしない

ぼくは深い井戸をこわごわと覗くように
人間の魂の在りかに
触れてみたい
そこに
どんな夕陽が 赤光が
どんな炎が 沈黙が

つるべ落し 

 どこが「注釈」? 井戸が10ある、ということが?

 「注釈」の「意味」が違うのである。広辞苑では「注釈」を「注を入れて本文の意義を解きあかすこと」と解説しているが、田村にとって「注釈」とはそういうものではない。本文の意義を解きあかすというよりも、本文に近づかないまま、本文を解体することが注釈なのである。「意義」を解きあかすことではなく、「意義」を拒絶し、逸脱していくことが注釈なのである。
 「つるべ落し」から、いったいどれだけ遠くまでことばを動かすことができる。
 完全に離れししまったとき、それは実は「つるべ落し」の背後から、その内部を突き破っているということがあるかもしれない。田村は、そういう運動を狙っている。

悪はエロチックで肉感的だった
善はダイナミックで非実在だった

という箴言や、

ぼくらの世紀末には
精神も肉体も病むことを知らない
病めの花が「悪の華」という珍奇な題に訳されたのも
そのせいだ

 という感想が書かれる。
 「つるべ落し」とどれだけ「無関係」なことを、無関係なまま、ことばの運動として存在させることができるか。そのときの破壊の力、それが「注釈」である。「注釈」とは破壊する力のことなのである。
 あらゆることばとって、それが何を注釈するかはどうでもいいことである。何かを注釈すれば、ことばに意味が出てくるのではない。ことばは何かに従事してはいけない。従事することを拒絶し、それ自体で動いていかなければならない。
 じっさい、田村のこの作品のことばがおもしろいのは、それが「つるべ落し」を注釈しているからではなく、それとは無関係であるからだ。どこへ動いているのか、そのベクトルの方向さえわからない。けれども、そのエネルギーの炸裂の力自体は、どの行も非常に強い。この混沌とした矛盾--それが、田村の詩なのである。

あたかも風のごとく―田村隆一対談集 (1976年)
田村 隆一
風濤社

このアイテムの詳細を見る