『田村隆一全詩集』を読む(43) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


 『5分前』(1982年)の巻頭の「暁の死線」。書き出しの2連がとても好きだ。

どんな夜明けの五分前
どんな日暮れの五分前

午睡からさめて
時計をみたら いつまでも五分前にはならないのだ

 なぜ「五分前」? それがわからない。だから、この詩が好きである。あるひとつの何か、その手前、そういう感覚。
 たどりつく前のある一点(ある時間)。そこにたどりつけば、その先が、たどりつくべきものが見えるのか。見えるかもしれない。けれども、そのある一点(ある時間)にもたどりつかない。
 ここは、どこ? いつ? それがわからないときでも、その先の先に、たとえば「夜明け」あるいは「日暮れ」というものがあるとわかる感じ。
 この、おしひろげられた「間」の不思議さ。ここには、ことばにならない何かがある。
 この詩は「顔のない女」→「幻の女」→「暁の死線」と、連想が動いていく。そして、田村は、ウィアム・アイリッシュのDead lone の訳に悩んだ、と告白している。そのあと、

それでは そのままgoといういことになって
Dead lone は「死線」になった
死線の線には
泉があるから

夜明けなのか
日暮れなのか

ひっそりと
告げてくれると ぼくは
思う

 おしひろげられた「間」--そこに、「泉」が浮かび上がる。「死線の線には/泉があるから」というのは、漢字「線」を「糸」と「泉」にわけて、そういっているだけなのだが、その「糸」と「泉」にわけるときの、そのとき生じる「間」が、「五分前にならないのだ」の感覚に、不思議と重なって感じられる。
 そこから浮かんでくる「泉」、その「間」に見えてくる「泉」。それをなんと読んでいいのかわからない。私が、いま書いているのは、感想にもなっていいない、たんなることばなのかもしれない。私は、私の感じていることをうまくいえない。
 だが、なんといえばいいのだろう。
 私には「泉」がみえる。私の見ている「泉」は遠くにあって、うっすらとその水面が光っている。その輝きはたしかに、「いま」が「夜明け」なのか「日暮れ」なのか、告げてくれるような感じがする。--というか、そういう「泉」を、ふっと見てしまうとき、それはたしかに「死」とつながっているような気がするのだ。
 不思議な予兆。予感。

 いままで、私が書いてきたことばでは語れない何かが、この詩にはあって、それを私は美しいと感じる。


泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年)
田村 隆一
毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る