『5分前』(1982年)の巻頭の「暁の死線」。書き出しの2連がとても好きだ。
どんな夜明けの五分前
どんな日暮れの五分前
午睡からさめて
時計をみたら いつまでも五分前にはならないのだ
なぜ「五分前」? それがわからない。だから、この詩が好きである。あるひとつの何か、その手前、そういう感覚。
たどりつく前のある一点(ある時間)。そこにたどりつけば、その先が、たどりつくべきものが見えるのか。見えるかもしれない。けれども、そのある一点(ある時間)にもたどりつかない。
ここは、どこ? いつ? それがわからないときでも、その先の先に、たとえば「夜明け」あるいは「日暮れ」というものがあるとわかる感じ。
この、おしひろげられた「間」の不思議さ。ここには、ことばにならない何かがある。
この詩は「顔のない女」→「幻の女」→「暁の死線」と、連想が動いていく。そして、田村は、ウィアム・アイリッシュのDead lone の訳に悩んだ、と告白している。そのあと、
それでは そのままgoといういことになって
Dead lone は「死線」になった
死線の線には
泉があるから
夜明けなのか
日暮れなのか
ひっそりと
告げてくれると ぼくは
思う
おしひろげられた「間」--そこに、「泉」が浮かび上がる。「死線の線には/泉があるから」というのは、漢字「線」を「糸」と「泉」にわけて、そういっているだけなのだが、その「糸」と「泉」にわけるときの、そのとき生じる「間」が、「五分前にならないのだ」の感覚に、不思議と重なって感じられる。
そこから浮かんでくる「泉」、その「間」に見えてくる「泉」。それをなんと読んでいいのかわからない。私が、いま書いているのは、感想にもなっていいない、たんなることばなのかもしれない。私は、私の感じていることをうまくいえない。
だが、なんといえばいいのだろう。
私には「泉」がみえる。私の見ている「泉」は遠くにあって、うっすらとその水面が光っている。その輝きはたしかに、「いま」が「夜明け」なのか「日暮れ」なのか、告げてくれるような感じがする。--というか、そういう「泉」を、ふっと見てしまうとき、それはたしかに「死」とつながっているような気がするのだ。
不思議な予兆。予感。
いままで、私が書いてきたことばでは語れない何かが、この詩にはあって、それを私は美しいと感じる。
泉を求めて―田村隆一対話集 (1974年) 田村 隆一 毎日新聞社 このアイテムの詳細を見る |