水野るり子「ラプンツェルの鐘」 | 詩はどこにあるか

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水野るり子「ラプンツェルの鐘」(「ラプンツェルのレシピ」2009年03月27日発行)

 水野るり子「ラプンツェルの鐘」はグリム童話を題材に9人が詩を書いているなかの1篇である。「ラプンツェル」をどう料理できるか--という競作のようである。
 私は、水野の作品がいちばん気に入った。そこには音楽があったからである。

口のなかで
飴玉をころがすように
呼びかけてみる
ラプンツェル…
ラプンツェル…って
ほら、鐘の音が響いてくる
クラン クラン マリーン
 …呼ぶのは
 だれだい
 だれなの
 かわいい娘なの
クラン クラン マリーン
 ちがうわ、それはわたしじゃない
でも、空の水たまりに
息を潜めていた水夫たちが
ぬきあし さしあし
耳のおくの塔に降りてきて
クラン クラン マリーン…
こっそり鐘を突きはじめる

 童話をどうとらえるか。それは人によって違うだろう。私は、それは「読む」というより「聞く」ものだと感じている。聞きながら、消えていくことばを追いかけるように、想像力が逸脱していく。そのときのリズムが(音楽が)童話だと思う。「意味」ではなく、ことばが自在に動く、その一種のでたらめさのなかにある何か--ことばをつらぬく音楽がないと、童話は、どうしても「教訓」になってしまう。「教訓」ではおもしろくない。楽しくて、こわくて、こわいことが楽しくて、ついつい想像してしまう何か。あるいは、楽しくて、でも泣きたくて、その矛盾が好きで、ついつい想像してしまう何か。水野のことばのリズムは、そういうものをつかんでいるように感じられる。
 「空の水たまり」というありえないものが楽しい。「息を潜めていた水夫たちが/ぬきあし さしあし/耳のおくの塔に降りてきて」と肉体に迫るこわさが気持ちがいい。「耳のおく」から入ってくる音が「こころ」を乱暴につかんでゆく。その乱暴さに、なんだか、わくわくする。
 後半も、童話のお手本通り、こどもなら思わず目をつむりながらはっきり見てしまう何かが、音楽のままつづいていく。

ひややかな月の色に染まって
かたむいている
とんがり帽子の塔をむずむずさせて
ねえ、ねえ、きいてよ
お母さん
ラプンツェルって
魔女に食べられてしまった娘?
さあどうだかね
台所で長い竹箸を
リンゴに
突き刺したまま
振り向いたお母さんの口が
耳まで裂けている



ラプンツェルの馬
水野 るり子
思潮社

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