監督 ロン・ハワード 出演 フランク・ランジェラ、マイケル・シーン、ケビン・ベーコン
この映画は一箇所、非常におそろしいシーンがある。フロストがニクソンを追いつめ、「大統領が法なのだ」と言わせたあと、当時を回想したシーン。フロストに協力したひとりが言う。おおよそ、次のような内容である。
「映像はすべてを切り捨てる。短絡化する。ひとはニクソンが追いつめられ、告白した一瞬のテレビ画面しか覚えていない」
これはほんとうである。わたしたちは、全体をじっくり検証して何かを判断するのではなく、一瞬の表情で全部を判断してしまう。物事をひとつひとつことばにして、論理的に矛盾がないかどうかなど、気にしないのだ。論理が破綻する、その一瞬。そのときの表情。それだけで、その論理全体を一気に否定する。否定的な判断を下す。
その判断は、間違ってはいないだろうけれど、たしかに何かを省略している。重要な「過程」を、その「表情」を引き出すまでにつみかさねてきた「過程」を一瞬のうちに忘れさせる。「ほら、やっぱりニクソンが悪かった、とんでもない奴だった」と簡単に判断して、では、そういった悪事が再びおこらないようにするためには何をすべきなのか、ということを考えなくなる。何を、どうすればニクソンのやった犯罪を防げるかは、その表情を引き出すまでの「過程」のなかにこそ手がかりがあるにもかかわらず、である。
この映画は、映画でありながら、映像文化を厳しく批判している。それがおそろしい。とても冷めた映画である。
映画は、フロストがニクソンを追いつめていく過程を映像化している。そこには、おもしろい対比がある。
フロストは軽薄である。マイケル・シーンは「クィーン」(★★★★)のなかでブレア首相を演じ、クィーンから「にやけ顔のブレア」と呼ばれた役者だが、実際、顔がにやけている。とてもニクソンを追いつめるような男には見えない。それはニクソン自身も感じたことなのだと思う。くみやすい相手だと思い、インタビューに応じることにしたのだろう。(何回か金の話が出てくるが、金もそうだが、相手の顔の印象が影響しているだろう。)
実際に、インタビューがはじまると、ニクソンの独壇場である。質問に対し、延々と一般論で語りつづけ、質問させない。インタビューの時間を演説でつかいきってしまう作戦である。そのとき、フロスト、マイケル・シーンの顔からにやけた印象が消える。笑っていられない。反撃の機会をなくして、うろたえて、椅子に沈み込む。
このとき、私たちは、ニクソンとフロストの対話など聞いていない。二人の表情から、あ、ニクソンが勝っている、とだけ思う。ニクソンは、ちょっとちゃちゃを入れたいような、おかしな話もするのだか(実際、私は何度か声を上げて笑ってしまったが)、何を話したのだったか、よく思い出せない。ただ、フロストの姿勢が崩れ、顔が低くなり、後ろにさがり、背を自分で支えるのではなく、椅子の背もたれにあずけ、反撃できないというより、ただひたすらニクソンの攻撃をなすすべもなく浴びているという印象だけをもってしまう。
インタビューのほとんどは、ニクソンが圧勝しているのである。
ニクソンは非常に堂々とした男であり、フロストは軟弱な、たかがテレビのパフォーマーという印象しか残さない。
途中には、二人の対比として靴の話が出てくる。フロストの履く靴が甲を解放したイタリア製の紐なしであるのに対して、ニクソンはあくまで甲をしっかりと固定する紐のある靴を履いている。ニクソンは「あの靴を見たか。イタリア製だ。紐なしで女っぽい」。そのことばのように、二人の対決は、攻めるニクソン(男)、うろたえるフロスト(女)という単純化した「映像」に収斂する。映像は、すべてを、簡単に短絡化するのである。
これが、最後のインタビューで逆転する。
そこでかわされる対話については省略するが、この大逆転の、勝利の一瞬の映像の処理がとてもすばらしい。
最初に書いたフロストの仲間の「映像は短絡化する。ひとはニクソンの顔しか覚えていない。見ていない」というせりふを追いかけるようにして、実際のテレビモニターのなかにニクソンの最後の表情を映し出す。それもテレビ画面は斜めになっていて、あっ、ニクソンが絶望しているということがわかる範囲で、ぎりぎりの短い時間だけ、映し出す。映画なのに、映画のカメラがとらえたニクソンのアップではなく、あくまでテレビ--一般の人が見たであろうテレビのモニターのなかのアップを見せる。これは、うまい。ほんとうに、うまい。映画を見ているはずなのに、一気に、ニクソンがインタビューに応じたその時代、その瞬間、その敗北の瞬間に観客を引き込む。ああ、そういうことがあった、と、そのテレビを見ていない私でさえ思うのだから、実際にアメリカでそのテレビを見てひとはきっとその時間に引き戻されたことだろうと思う。
どんな映像でも、その映像を受け入れるモニター(スクリーン)の大きさと、それにあわせたアップの大きさ(対象への接近の仕方)がある、ということも、ロン・ハワードは熟知しているのかもしれない。最後の最後、だめ押しの表情をテレビでなく、スクリーンでとらえた方が表情ははっきりするし、映画らしくもなるのだが、それではニクソンとのインタビューがつくりものになってしまう。リアルを超越してしまう。リアルを超越していい映画と、超越してはいけない映画があって、この映画はあくまでリアルに踏みとどまる映画である。(そのために映像文化批判までしている。)
ロン・ハワードは特別に好きな監督というわけではなかったが、この最後の映像で、とても好きになってしまった。--あ、きっと、こんな感想も、きっと「短絡的」と批判されているのだろうけれど。
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