『田村隆一全詩集』を読む(41) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 人間とは何か。田村は人間をどのように見ていたか。短い詩がふたつある。「装飾画の秘密」。

猫は一瞬のうちに猫になるが
人間はそうはいかない
光の部分と陰の部分でできているからだ

女性が女性になるためには
軽快なリズムと多彩の色調で
縁取られた時間がいる

神の眼から見れば
猫も人間もおなじ時間のなかで
生きているのだが

画家の眼から見たら
人間は物と交感することで人間になるのだ
とくに女性は装飾のなかで

装飾は流行ではない
装飾には内的な持続があり その時間が
女性に生命をあたえるとしか思えない

まだ だれも
猫の足音を聞いたものはいない

 「人間は物と交感することで人間になるのだ」。この行の「交感」は、次の連で「内的な持続」の「時間」と言い換えられ、「なる」は「生命あたえる」と言い換えられている。ものと交感するときの内的持続をとおして、人間は人間に生命をあたえ、そうすることで人間に「なる」。
 猫は猫になるというよりも「なる」という時間(内的持続)を必要としない。猫は猫に「なる」というよりも、最初から猫で「ある」のだ。人間だけが人間に「なる」のである。内的持続をとおして。

 「受精」という作品では田村は人間と花、蝶と比べている。

人間の見ていないところで
花はひらく

紫色の炎が空から垂れさがり
はげしい驟雨が海のほうへ駈けぬけて行くと

うなだれていた花は光りにむかって
唇をひらく

黒い蝶が通りすぎる
蜜蜂が通る

花は生殖器だから
ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている

むろん
ぼくは人間ではない

 「ぼくは人間ではない」。では、何なのか。その直前の連が手がかりになるだろう。「ぼくは裸体のまま白昼の世界をみつめている」というのは、もちろん「事実」ではないだろう。比喩だろう。「裸体のまま」というのは。そして、「裸体のまま」であるから、田村は「人間ではない」といっている。「裸体」でないならなら「人間である」。
 「ぼくは人間ではない」の「ない」が重要である。「ない」は「ある」に対して「ない」といっているだ。
 では何なのか。
 「人間」に「なった」のである。
 比喩としての「裸体のまま」。それは、比喩は「ある」ではなく、「なる」である。たとえば、「花は生殖器である」の「生殖器」は比喩である。花は、人間でいえば「生殖器」である。「生殖器」というのは「動物」のものであって「植物」のものではない。比喩である。そして、その比喩をつかったとき、花は生殖器に「なる」。「ある」ではなく、人間の意識のなかで、生殖器に「なる」。
 花が生殖器に「なる」とき、田村は、その生殖器に誘われて「裸体」に「なる」。
 この「なる」というのは、現実というか、客観的な現象ではなく、「内的」なものである。「内的な持続の時間」のなかでおきる現象である。
 そして、こうした「内的持続時間」のなかでおきる変化、花が生殖器に「なり」、田村が裸のままに「なる」という、「なる」の重なり合いを「交感」というのである。

 最終行の「ぼくは人間ではない」とは「ぼくは人間になる」とおなじ意味になる。

 「ぼくは人間である」のでは「ない」。人間に「なる」。「ある」を否定して「なる」へと動く。たどりついたところは、弁証法のように、矛盾→止揚→発展ではないから、簡単にはわからない。「ある」を否定し、解体し、生まれ変わる「なる」も、外見的にはわからない。わかりにくい。すべては「内的持続時間」の問題である。




詩集〈1977~1986〉
田村 隆一
河出書房新社

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