殿岡秀秋『日々の終わりに』 | 詩はどこにあるか

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殿岡秀秋『日々の終わりに』(書肆山田、2009年03月10日発行)

 殿岡秀秋は柔道をやるのだろうか。柔道のことを書いていると思える詩がある。「よみがえれ」「跳ぶ飛ぶ」と2篇あるが、最初に読んだ「よみがえれ」の方がよりおもしろい。全行。

畳の上に立って
相手と対峙する

力をぬけ
と自分に命じる

腕から力がぬけるのを
合図に
からだがゆるんでいく

硬く
分かれ分かれの島になっていた
筋肉が緩んで
浅い海でつながる

腹の奥まで緊張がとれると
凍っていた気持ちが溶けて
水蒸気のように
からだから気が昇っていくのが
相手にだけ感じとられる

相手の腕と自分の腕を交差し
柔らかく気と気を交流させる

人になる前の昔を
細胞は記憶している
動物的反射で行動したころの感覚で
からだが動く

ぼくは片足を軸に回転する
身を翻した瞬間
太古

 4連目がとても魅力的だ。私は柔道もしないし、運動そのものをしないが、運動をする人はみんなこんなふうに感じるのだろうか。自分の筋肉の部分部分が島になっていると……。そして、それが海でつながると。
 人間になる前の記憶--海からやってきた私たちの肉体。海からあがり、いすいろな生き物をへて、人間になった。人間になったあと、筋肉は筋肉で、それぞれ独立して「島」になる。それが緩んで、海でふたたびつながる。
 とても魅力的な肉体感だ。
 この感覚が味わえるなら、柔道をやってみたいものだ、と思った。

 「指の歴史」というのも楽しかった。

ぼくの左足の小指と薬指の間に紅い蕾
昨日と今日との間に開花した

肉に根を張り
血を養分にして
唇色の花を開く

乾燥した足の大地は
葉脈のようにひび割れているのに
そこだけ露が震えている

幼い日のアカギレは
今も薄い血を滲ませて
脳裏にふさがらないままだ

あるころは明日がくるのが遠く感じられ
傷が癒えることすら信じられなかった

花が開くには
ささやかでも
歴史があるはずだ

 「肉体」のなかに「時間」をしっかり感じ取る詩人なのだと思った。「紅い花」も、「島」と「海」も、とてもシンプルな比喩だが、そのシンプルな感じが肉体そのものをシンプルにしていくようで気持ちがいい。
 
 もっともっと、こういう作品を世みたいと思ったが、後半に行くにしたがって、ことばが肉体から離れていくようで、それが残念だった。


眼底都市―詩集 (1979年)
殿岡 秀秋
銀曜日

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