詩を書く人は
ピアノを弾く人にすこし似ている
彼の頭脳がキイを選択するまえに
もう手が動いているのだ
手がかれを先導する
手は音につかまれて遁れられないのだ
それで手があんなにもがいているのさ
音が手をみちびき
手は音から遁れようとしながら
かれを引きずって行く どこへ
「キイ」を、そして「音」を「ことば」と置き換えれば、それはそのまま「詩人」である。
この作品でいちばん重要なのは、
彼の頭脳がキイを選択するまえに
である。ことばは「頭脳」が選択するのではない。言い換えれば、「頭脳」で選択したことばは、詩ではない。「手が」とは、そして、「肉体が」ということでもある。「肉体」がかってに「詩人」を導いていく。「肉体」はことばに支配されて動いていく。このとき、「肉体」は「未分化」である。ピアニストの場合は「手」と簡単に分化されているけれど、(ほんとうはピアニストも手以外のにくたいそのものも引きずられているのかもしれないが)、「詩人」の場合、「未分化」の感覚--視覚、触覚、嗅覚、聴覚、味覚、五感が「未分化」のまま引っぱられていく。
「未分化」の肉体は、ことばを追いかけながら、なんとか「分化」しようとする。そういうことを、「ことばから遁れようとしながら」と言い換えることができるだろう。実際、肉体はことばを追いかけることで「分化」する。手になり、眼になり、耳になる。そのとき、「未分化」から「分化」の過程では、たとえば「手で見」たり、「眼で聞い」たり、「耳で触っ」たりするのだ。手が眼になり(「眼の称讃」の最後の2行、「あなたの その動く手が 手そのものが/あなたの眼だ」参照)、眼が耳になり、耳が手になる。肉体の部分と感覚の部分が入り乱れ、融合する。
こういう運動の行き先は、だれにもわからない。詩を書いている人にも、わからない。
かれを引きずって行く どこへ
「どこへ」かは、だれにもわからない。わからないけれど、そのわからないものを、わからないまま追いかけることができるのが「詩人」ということになる。
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