監督 ジョン・パトリック・シャンリー 出演 メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン
メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技合戦を期待して見に行った。最後の2人の密室での口論、激論は、ずいぶん評判になっている。
たしかにメリル・ストリープは大変すばらしい。カトリックの尼さん(?)お衣装で、顔だけがくっきり見える。顔の変化だけで演技する。その口の動き、口元の変化が、最後の口論ではとても効果的だ。ことば、ことば、ことば。そのことばに観客の意識をひっぱてゆく。
フィリップ・シーモア・ホフマンは、威嚇する顔と、あの持って生まれた甘えん坊のような顔を交錯させながら、メリル・ストリープの精神と感情の両方に働きかけようとする。濃密な舞台劇そのものである。(原作は舞台劇)
しかし、この映画で心底驚いたのは、フィリップ・シーモア・ホフマンが誘惑した男子生徒の母親の演技である。メリル・ストリープに呼び出され、息子のことを問いただされる。メリル・ストリープは少年の行動(とフィリップ・シーモア・ホフマンの行動)について疑惑を感じている。同じ疑念を、母親は抱かないのか、と問い詰めてゆく。
これに対して、母親は、少年に対して一切の疑念を抱かない。フィリップ・シーモア・ホフマンに対しても疑念を抱かない。それは、フィリップ・シーモア・ホフマンと少年のしていることを知らないというのではない。知っている。知っているけれど、それを許す。許して、受け止める。ようするに少年を、少年のありのままで愛するのである。母親にとって大切なことは少年を愛することである。少年を守ることである。
この、疑念と愛とのぶつかり合う2人のシーンは、映画史上に残る傑作である。メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの激論はじめ、セリフは室内で、あるいは学校の敷地で発せられるのに、この2人のシーンだけは町を歩きながら行われえる。他者に開かれた場所で行われる。いいかえると、「世間」のなかで繰り広げられる。そこに「世間」のひとは母親以外に登場はしないけれど。
結果的に、この母親の愛、息子のしていることは何でも知っている、知っていてカトリック学校に通わせている、息子には「保護者が必要なのだ」ということばが、メリル・ストリープの疑惑が「正しい」という「証拠」になるのだが、メリル・ストリープの正しさが証明されればされるほど、母親の愛の切実さも強烈になる。
正義か愛か――というのは難しい問題である。正義と愛は両立するというのがメリル・ストリープの主張である。フィリップ・シーモア・ホフマンを追放し、少年から遠ざけることが少年を守ること(大切に育てること、愛すること)と主張する。この考えは、確かに「正しい」。そして「正しい」ゆえに、問題を複雑にする。愛はときとして、「正しい」ことを基準に動かない。「正しい」はいわば「社会全体」の最大公約数の基準であるのに対し、愛は他人を(第三者を)気にしない。あくまで個人のことだからだ。
話は少し前に戻るが、メリル・ストリープと母親の対話シーンだけが屋外(世間)で撮影されていることの「意義」がこの、正義と愛の対決に関係してくる。
この映画は1960年代のニューヨークが舞台だが、そのころはちょうどあらゆる「基準」が変化しはじめた。それまでは「教会」「学校」など閉ざされた社会の「基準」がその他の基準をリードした。世間は、立派な人たちが協議して確立した基準に従って生きた。しかし、このころから、そういう基準に対して「異議」を唱え始めた。少年の母親のように。
フィリップ・シーモア・ホフマンのセリフの中に「教会も学校も変わらなければならない」ということばがあった。「世間」は「閉ざされた社会」がつくった基準以外のものを、多様性を受け入れ、受け入れることを「愛」と感じていたのである。
メリル・ストリープと母親の対話シーンが、特に母親の演技が、大変素晴らしいのは、そういう時代の空気そのものをもくっきり体現しているからだ。母親は、母だけではなく、「世間」そのものだったのだ。神父が少年を誘惑するのは悪い、しかし、少年の性癖そのものは「悪」ではない。あらゆる人間の性質は、そのまま愛さなければならない。あらゆる人間が共存すべきだ。
この映画は、最後に大きな質問を観客に投げかけている。愛とは何かと。
メリル・ストリープは最後に、フィリップ・シーモア・ホフマンを学校から追放するため、嘘をついたと告白している。そして、「私には確信があった、疑惑という確信が」と。疑惑、疑念――それは、実は「愛」なのだ。確信があったのは、実は疑惑に対してではなく、自分への愛に対して確信があったというのに過ぎない。自分を愛していただけなのだ。他者へ開かれた愛ではなく、自分自身を防御するための愛、メリル・ストリープの場合、自分の信じている基準を守るという自己愛。メリル・ストリープはこの自己愛に気づき、最後に、後悔し泣く。この涙のシーンは、この映画の救いである。
息子のことを語りながら、母親が流した涙も美しかったが、この最後のメリル・ストリープの涙にもこころを揺さぶられた。メリル・ストリープは名優であるとつくづく思った。それまで、こんなに嫌な人間はいないと思わせておいて、最後の一瞬、そういう人間にも救いがあるということを、さっと具現化するのだから。