『田村隆一全詩集』を読む(20) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「分解」と「眼」ということばは「緑の思想」のなかに何度か出て来るが、この詩の書き出しは、とても特徴的だ。

それは
血のリズムでもなければ
心の凍るような詩のリズムでもない

 1行目。「それは」。「それ」とはなにか。タイトルの「緑の思想」か。よくわからない。田村にもよくわからないのだと思う。「それ」としか、まだ言いようがない。そのまだはっきりとはしないものを、「リズム」ということばが象徴的だが、ことばのリズムにのって探しにゆく。頼りになるのは、ことばのリズムだけである。リズムがことばを自律させる。運動をうながす。
 そのリズムにのって、まず「分解」ということばがあらわれる。

だしぬけに窓がひらき
上半身を乗り出して人間がなにか叫ぶ
なにか叫ぶがその声はきこえない

あるいは
その声はきこえたかもしれないが
だれひとりふりむくものはいない

あるいは
だれかふりむいたかもしれないが
耳を常に病んでいる人間は少いものだ

この世界では
病むということは大きな特権だ
腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ

 「あるいは」というひとつの論理のリズム。それにのって、叫び、きこえない、聞く、耳、病気(病む)と移行して、「腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ」と飛躍する。
 聞こえない叫びを聞いてしまう耳--それは、「世界」を分解し、聞こえない叫びを取り出す耳のことである。そういう「特権」的な耳を健康な耳ではなく病気の耳ととらえる。この一種の逆説、レトリックのなかに、田村の「思想」がある。
 病気、腐敗、消滅--いわば、否定的に表現されることのおおい現象のなかに、田村は「分解」する力をみている。なにかを否定する力--それが世界を「分解」し、「世界」から、いままで存在しなかったものを取り出す。とこばとして。たとえば、「聞こえない叫び」として。「きこえない叫び」は、言語矛盾である。聞こえなかったら叫びとは言わない。ふつうの声より大きい声が叫びなのだから。
 だが、聞こえるものだけが実際の叫びではないことを私たちは知っている。聞き取られることを恐れて、殺してしまう叫びというものもある。「きこえない叫び」ということばは、その矛盾のなかに、ほんとうは矛盾しないものを隠している。それを本能的に、直感として聞き取ってしまう耳。--それは病気の耳。不都合な耳。それは、この世界をこのまま維持しようとするもの(人間・体制)にとって不都合という意味になるだろうけれど。
 そして、この、この世界を維持しようとするものにとって不都合なものこそ、田村は「思想」と考えている。あるいは、「詩」と考えている。
 田村はいつでも、世界をいまある形ではなく、それが出来上がる前の状態に戻したい、そのときのエネルギーそのものを目の前に取り出したいと願っているのだ。そのために「分解」するのだ。

 「分解」の次になにがくるか。分解すると、すぐ、世界はエネルギーになるのか。そうではない。エネルギーにいたるまでにはいくつもの過程がある。
 「分解」すると「部分」があらわれて来る。

全世界は炎と灰だ
燃えている部分と燃えつきた部分だ
部分と部分の関係だ

部分のなかに全体がない
いくら部分をあつめても全体にはならない
部分と部分は一つの部分にすぎない

 「分解」する。けれども、それは「部分」をもとめてのことではない。あくまで「全体」を求めて「分解」する。これは、矛盾である。矛盾であるからこそ、そこに田村の思想がある。田村は分解によって対立項を探しだし、それを止揚、発展へと結びつけようとはしていない。止揚、発展という形の「全体」を求めてはいない。むしろ、そういう動きそのものを「解体」しようとしている。
 「部分」と「部分」があつまった「全体」ではなく、むしろ、「部分」のなかに「全体」をさぐっている。「部分」のなかにも「部分」を超えたもの--つまり、「部分」と相いれない異質なものがある。そういうものを、ことばの運動で取り出そうとしている。

「時」が直線上にすすむものとはばかり思っていた
「時」の進行は部分によってちがうのだ
部分と部分によってちがうのだ

 「分解」によって、田村は「部分」の本質を知る。「部分」というものをつかむのではなく、「部分」の本質に迫るために「分解」する。それは「時」を超越するなにかである。その超越するなにかは、まだ、わからない。わからないから、書くのである。

部分的にはそう見えるだけだ
部分的にはそう感じるだけだ
部分的には部分を知るだけだ

眼をつむればそれがよくわかる
眼でものを見るということはものを殺戮することだ
ものを破壊することだ

 「眼」のなかには、「眼」の歴史がある。時間がある。つまり、時間をへることによって形成されたものの見方がある。一種の、無意識のレトリックが、そこには存在する。眼をつむってもなにかが見えるのは、そのレトリックの力である。レトリックが自律し、眼をへずにものを見てしまうのである。
 そういうレトリックを分解しなければならない。解体しなければならない。そうして、その奥にあるものを解放しなければならない。レトリックによって「殺戮」され、「破壊」されたものを再生しなければならない。

一度でいいから
人間以外の眼でものを見てみたい
ものを感じてみたい

「時」という盲目の彫刻家の手をかりずに
ものが見たい
空が見たい

 「人間以外の眼」。それは人間のレトリックに汚染されない眼である。そういうレトリックは「時」、つまり「歴史」のなかにある。そういうものに汚染されない眼を田村は求めている。
 そのために、「時」のレトリックと向き合い、闘い、それを根絶するために、なにが必要か。新しいレトリック、新しいことばの運動、つまり詩が必要なのだ。

 田村の詩は矛盾に満ちている。それは、いいかえれば、いままで存在しなかったレトリックで満ちているということでもある。新しいレトリックだけがことばを解放する。ことばを束縛する「時」を超越する。




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