一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
「生」と「死」。しかも、その死は自然のものではなく、「殺す」ことによって生まれる死である。そして殺す対象は敵(憎むべき相手)ではなく「愛するもの」である。
4連目。
記憶せよ、
われわれの眼に見えざるものを見、
われわれの耳に聴えざるものを聴く
何によって? 想像力によって?
しかし、この4連目は次のようにつづいている。
一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに、
四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を
われわれは毒殺した
「眼に見えざるものを見、」「耳に聴えざるものを聴く」というとき、つかわれている力は「想像力」ではない。その「想像力」さえもが毒殺の対象なのだから。では、何によって見聞きするのか。
「ことば」によって、である。ことばを発すること、見た、聴いたとことばにする、書くことによって、田村はすべての行動をする。「毒殺」するのも、ことばよってである。ことばに田村は特権を与えている。詩とは、特権を与えられたことばなのだ。
最終連。
一篇の死を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
「生む」のは「あたらしいいのち」ではない。「死者」を「甦らせる」と田村は書き換えている。死者は現実には甦らない。けれども、ことばのうえでなら、死者は甦ると書くことができる。ことばは、あらゆる存在に先行して、動いていくことができる。
想像力があって、それをことばで説明するのではない。ことばがあって、ことばが想像力を動かしているのだ。だからこそ、不必要な想像力はことばの力によって「毒殺」するということが可能なのだ。
「四千の日と夜」は、いわば、「ことば」の特権宣言である。「ことば」の独立宣言といえばいいだろうか。何にも束縛されない。ことばは、ことば自身の力で自在に運動する。それが詩である、という宣言である。
田村は、「ことば」をもって、という肝心の「主語」をこの作品では書き記していないが、それは書き記す必要がないほど、田村には自明のことだったのだ。自明すぎて、書き忘れているのである。そして、この詩が「現代詩」の世界で受け入れられたのは、「現代詩」を書く詩人達がその意識を「共有」していたことを意味するだろう。
だれもが、詩は、ことばの独立宣言であると思っていたのだ。現実を描写するのではない。ことばの力で現実を動かす。極端に言えば、ことばを現実(実在)が描写する。ことばは、詩は、現実をひっぱって動かしていく。
芸術は自然を模倣するのではない、自然が芸術を模倣するのだ--ではなく、詩は現実を模倣するのではなく、現実が詩を模倣するのだ、というのが田村たちの、この時代の「共通認識」だったのだと思う。
矛盾したことばを書く。それは矛盾を書いているのではない。「現実(くらし)」のなかでは矛盾としか定義できないものが実は矛盾ではないという主張のために、「わざと」矛盾を書いているのである。いま、矛盾に見えることが、永遠に矛盾でありつづけるわけではない。それは矛盾を超越した何かになる。(止揚ではない。)詩人には、それがわかっている。だから、それを書くのである。
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