窓のない部屋があるように
心の世界には部屋のない窓がある
「窓のない部屋」は矛盾ではない。しかし「部屋のない窓」は矛盾である。そういうものは現実には想定できない。
「部屋のない窓」というのは、たとえば工事現場の塀の「窓」という例がある--というのは屁理屈である。1行目を無視した、単なる「現象」の証拠にすぎない。2行目はあくまで1行目の対句なのだから、そこに「塀」などをもってきても、ことばの運動として無意味である。
「部屋のない窓」というものは現実にはない。けれど、ことばの運動としてはありうる。これが「現代詩」の出発点である。虚数が現実にはないが、数学上は存在するのと同じように、言語の運動、その運動を証明するひとつの方法として、「部屋のない窓」は存在する。ただし、これは1行目を前提とする。2行目は、1行目を前提として、「わざと」書かれた矛盾なのである。
詩において、矛盾は、あくまで「わざと」書かれたものなのだ。
なぜ、矛盾は詩に導入されるのか。3、4連目。
あなたは黙つて立ち止まる
まだはつきりと物が生れないまえに
行方不明になつたあなたの心が
窓のなかで叫んだとしても
ぼくの耳は彼女の声を聴かない
ぼくの眼は彼女の声を聴く
「窓のなかで叫んだとしても」の「窓のなか」というのは、「部屋」のことではない。あくまで「窓」そのものの「なか」である。「部屋のない窓」の、その「窓」そのものの「なか」である。
これも、ことばの運動そのものでしかつかむことのできない「虚数」としての表現である。
虚数は平方すると-1(マイナス1)になる。「-1」自体、奇妙な数字で、実際にそれを存在として見ることはできない。「-1本のエンピツ」は見ることはできない。手で触ることはできない。けれど、思考のなかでは、それは存在する。
そういうものが、数学だけではなく、言語のなかでも起きる。数学は、数字をつかって書かれた世界共通の国語であるが、数学という国語で起きることは、日常の国語でも起きるのだ。論理としてというより、運動として、そういうことが可能なのである。その可能性を追及しているのが「現代詩」である。
言語としての「窓のなか」の叫び声--それは、どうやってとらえることができるか。聞くことができるのか。
ぼくの耳は彼女の声を聴かない
ぼくの眼は彼女の声を聴く
「耳」ではなく、「眼」で聴く。これは、日常の文法からすると奇妙かもしれない。眼は聴覚ではないからだ。だが、この詩では、叫び声は絶対に「眼」で聴かなければならない。なぜか。「部屋のない窓」と、その「窓のなか」を実感できるのは「眼」だからである。現実には存在しないものを見る。その眼の力で、その「窓のなか」の叫びを見る。彼女が叫ぶのを見る。そのとき、「眼」のなかに、その叫びが届くのだ。
その叫びは、声にはならない声なのだ。声にならないまま、ただ口が叫びの形になる。それを見るとき、叫びはまず「眼」に見え、「眼」に聴こえる。「眼」が「耳」となって、叫びをつかみ取る。
肉体の感覚は、感覚の領域を越境する。超越する。
ある感覚が別の感覚を越境する。侵入する。超越する。こういうことは、奇妙かもしれないけれど、実際に存在する。感覚は、ある「共通」の何かをもっている。感覚の母体である「肉体」は、感覚を融合させる何かを持っている。
「冷たい声」という表現には触覚と聴覚の融合がある。「白々しい声」には視覚と聴覚の融合がある。そういう日常の表現を点検すれば、感覚は互いに越境することがわかる。そういう表現を私たちは日常的に知っている。その、知っているけれど、普段はありま意識しない領域へ向けて、ことばを動かしてゆく。そこで、新しい感覚を呼び起こすものとして、詩というものがある。
その具体的実践が「ぼくの眼は彼女の声を聴く」なのである。詩は、そういうことばの運動の実践のことである。
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