滝悦子『薔薇の耳のラバ』 | 詩はどこにあるか

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滝悦子『薔薇の耳のラバ』(まろうど社、2008年12月10日発行)

滝悦子『薔薇の耳のラバ』の「「共有」」という詩に忘れられない行がある。面会謝絶のAのことを書いている。

Aの指が確実に磨り減ってゆくのがわかる

 「やせ細る」ではなく「磨り減ってゆく」。その視覚ではなく、触覚の表現が、とても強く響いてくる。肉体感覚が鋭敏な詩人なのだろう。
 それは他の作品でもうかがうことができる。「「共有」」のように強烈ではないけれど、肉体を持っているという感じがしっかりと伝わってくる。「行方」という作品。全行。

----是より旧西国街道

木蓮の茂みは揺れもせず
塀と垣根と電柱と
陽炎だけの道

ひそかに石の道標が傾くとき
首が灼ける
肩が灼ける
棺ごと焼かれた人の記憶だろうか

脳髄が沸き立つ
汗がしたたる

影と方角が
くにゃりと
アスファルトに流れ出す



みんな、どこへ行ったのだ

 「首が灼ける/肩が灼ける」の繰り返しというか、静かな移動がおそろしい。首と肩はつながっている。その連続が、その肉体の部位のしっかりしたつながりが、「棺ごと焼かれた人」へとつながっていくとき、人のいのちと死のつながりが、そのまま肉体のなかでかっと熱く燃え出すような感じがする。滝は「記憶」と書いているが、その記憶は「頭」の記憶ではなく、「肉体」の記憶である。
 アスファルトへ流れ出したのは、影でも方角でもなく、そういう「肉体」の記憶のように思える。「肉体」が「くにゃりと」、つまり固定したか形を失って流れたしてしまえば、そこに「他人」などいるはずがない。

みんな、どこへ行ったのだ

 という疑問が生まれるのは当然だろう。熱い熱い太陽。空気。そのなかでつながってしまう私とだれかの「肉体」、溶け合ってしまういのち、そして死。そのまぶしい輝き。直視できないまぶしさ。そういうものが、ふっと見えてくる詩である。




鮨くう日々
滝 悦子
求龍堂

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