歌会始に招かれたときの様子を書いている。そこに他者の書いた歌や詩や俳句が引用されている。
御門には青年宮務官(きゅうむかん)が待ちうけてゐて「階段は美貌なれどもわたくしと目合はすことを避けかかるなり」(大滝和子)そつくりの美しい階段が絨毯をひきかむつてわたしを導かうとして強いて目を合はすのを避けたがつてゐるのを横目でみながら老いを意識したうつむき歩きになる
大滝和子の短歌は歌会始に招かれて、そのときに見た階段を詠んだものではないだろうけれど、そういうその場(その状況)ではないことばが、「いま」「ここ」に立ち上がってきて、現実をひっかきまわす。攪乱させる。そのときのこころの動き。そのときに、こころが動いてしまうということ--そこに詩の本質がある。
ことばは、いつでも、その場において直接発せられるだけではなく、どこか遠いところからやってきて、「いま」「ここ」と結びつき、「いま」「ここ」を「いま」「ここ」から引き離してしまう。ふたつの「場」がことばのなかで出会う。そして、その「ふたつ」の場が本来持っているものとは違った違った世界へひとを導く。
これは、ある意味では「注釈」の作業に似ている。
ことばは、かかれたことばは、いつでも、その「場」から離れた場で受け止められ、理解される。注釈は、かつての「場」に近づく作業だが、近づくということは、常に本来の場とは違った別の場があるという意識があってはじめて成立する運動である。Aという場とBという場が近づき、近づくことで似ていると同時に違っているものを発見する。そのとき、精神が興奮する。似ているものと違っているものとのあいだで、「いま」「ここ」を点検するのだが、そこにはどうしたって「発見」というか、何か新しいものが必ずあって、それが精神を興奮させる。--注釈はたいつくな作業のようでもあるけれど、そういう興奮をもたらす作業でもある。
岡井の書いているのは詩であるから、その「発見」を具体的には書かない。ただ、「いま」「ここ」において書かれたことばではないものが、「いま」「ここ」にあらわれて岡井の思考をぐいとひっぱる。そのひっぱる力にまかせて(ひっぱられるにまかせて)、動きはじめたことばを正直に書きとどめる。その正直さのなかに、岡井の「肉体」があらわれる。そこが岡井の作品のおもしろいところである。
詩は、引用部分につづいて、モーニングと燕尾服のあいだを揺れ動き、そこに建畠晢の詩や江里昭彦、さらには宮内庁からの案内、歌会始の出席者のことばが交錯する。交錯することで何か結論(?)がでるわけではなく、ただ交錯することが、交錯のまま、いわば混沌として描かれている。この混沌、そして、混沌を混沌のまま、ことばとして書き留めることができる強靱な文体を、私は、とても美しいと感じる。
岡井のことばの美しさは、結局、どんなことばも引き受けしっかりと動かすことができるという文体の力にある。今回の作品に岡井の特徴が非常によくあらわれているが、岡井の文体は、詩的言語(文学作品)は古典から現代まで自在にとりこむのはもちろんだが、事務的な散文や、日常の会話もとりこみ、それでいてまったく乱れないことである。他人のことばをとりいれるたびに、それ独自の調子を活かすから、それを乱調と呼ぶことはできるかもしれないが、その乱調が美しいのだから、もはや乱調とは言えない。
「美は乱調にあり」ということばを思い出すが、そうであるためには、強靱な肉体としての文体が基底になければならない、とも思う。岡井の文体はほんとうに強靱である。
![]() | 岡井隆の現代詩入門―短歌の読み方、詩の読み方 (詩の森文庫) 岡井 隆 思潮社 このアイテムの詳細を見る |