黄河陽子「きょうの日」は独特のスタイルを持っている。
食卓の朝
窓の かたちを カーテンに映して
あいさつする きょう
の 日
静かな 空間
影と共に 在る
一刻 一刻
朽ち果てると
だれが知っていただろうか
ひとときの輝きであることを
だれが見たのだったか
永遠に仰ぎ見る
魂の あこがれは いまも
遠く
いぶし銀の 光を放つ
1、2、4連。ことばが、ぷつん、ぷつん、ぷつんと空白を挟んでつながっていく。1連目のおわりの2行には「あいさつをする きょう/の 日」と、わたりまである。このことばとことばの分断が、黄河にとっての詩である。ことばを独立させる。ことばと「もの」とを直接結びつける。ことばとことばが結びつくのを避ける。
ことばは、ほうっておいても自然にことば同士その結びついて「文章」になってしまう。「意味」をつくってしまう。その「意味」とは、黄河の場合、「思い」(考え)ということになるかもしれない。3連目がそうだが、そこにはことばを分断する「空白」がない。改行はあるが、行の中には分断がない。それは「もの」ではなく、「考え」(思い)を書いた部分だからである。ひとの「考え」(思い)は「もの」と違って連続しているのである。どこまでもつながっているのである。
黄河はそれを分断したいと願っている。
なぜか。
4連目に手がかりがある。「永遠」「ゆめ」「魂」。それは、「考え」のなかにあるのではなく、「もの」のなかにあるのだ。「もの」のなかにある、「ゆめ」「魂」「永遠」を、「考え」と結びつけることなく、そのままの形にして向き合いたいのだ。「もの」をそのまま受け入れたいのだ。
その「もの」の中には「時間」もある。「時間」は連続したものだが、黄河は「一刻 一刻」と、その連続したものをなんとか分断して、その「一刻」のなかに「永遠」「ゆめ」「魂」をみつめたいのだ。
そんなふうに「永遠」を感じること--それを、黄河は最終連で、別のことばで書いている。
午睡から覚めると
障子にゆれる 日差しの枝葉
庭の南天が招いたのか
ぬくもり ざわめきが きこえる
はるかのなつかしい面影 二人 四人と
きょうの日を呼吸する わたしに
問うまなざしが やさしい
「もの」は「永遠」「ゆめ」「魂」を招き、その一個一個の「永遠」「ゆめ」「魂」を黄河は「呼吸する」のである。「肉体」のなかに取り入れるのである。そして幸福に包まれる。「優しい」「まなざし」につつまれる。
この世界にたどりつくために、黄河は、ことばを、ものを分断する。「考え」という束縛から解き放つ。そのために「空白」が必要なのだ。