八重洋一郎「宇宙律(2)」 | 詩はどこにあるか

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八重洋一郎「宇宙律(2)」(「ビーグル」2、2009年01月20日発行)

 「火」という作品と「蛇」という作品が発表されている。どちらもおもしろいのだが、「蛇」について書く。その2連目。

ゆらめく天軸 うごめく地軸 とどろきくねる
宇宙軸
軸とはこれ以上ない内部
ギリギリの
内部の内部に内臓はない
あるのは ただ
光だけ 「いま」という瞬間抱いて
骨格がきらきらひかり そして外部へ
暗黒放つ

 「蛇」というタイトルがついているので、読みながら「蛇」を連想する。宇宙の中心としての蛇。あの長い体は「軸」なのだ。「軸」というのは中心である。「内部」である。その内部の内部を、さらに追いつめていく。「内部の内部に内臓はない」というのは、とても生々しくて、蛇そのものに見えてくる。蛇には内臓があるはずだが、「内部の内部に内臓はない」と言われてしまうと、なんだか蛇にも内臓がないような気持ちになってくる。この変な(?)論理を私は「逸脱」と呼ぶのだが、蛇からはじまってどこまで蛇の外へ出て行けるか--というのが、八重がこの詩で書いていることだと思う。蛇から出発して、どんどん逸脱して、宇宙の中心へと蛇をつなげてしまう。そのとき、そのつながりとして「宇宙律」があるということなのだろう。たしかに真理はなんとでも結びつく。だから真理なのだろう。
 でも、こういう考え方は、いわゆる詩人の妄想? 詩人の妄想と真理は違う? そうかもしれない。そうではないかもしれない。区別がつかないけれど、この逸脱は、読んでいて楽しい。特に、次の連。

ゆらめく天軸 うごめく地軸 くねりとどろく
宇宙軸
ひかりというやみ
虹(へび)のはだ
やみという彩(いろ)
虹(へび)のひふ
騙(だま)しの手管(てくだ)は蛇身にあふれ そよそよとひっそりそよぐ危機の
鱗(うろこ)の隙まより 内部の
内部のさらに内部の軸芯(じくしん)蕩(とろ)かし こなごなに骨格くだき
広大無辺の
闇の中 きらきらと 切れ味
鋭い

 「ひかりというやみ」は「内部の内部に内臓はない」につながるのだが、この「ひかりというやみ」の矛盾。強烈な衝突のあと、「虹」という文字が出てくる。「にじ」である。それに「へび」とルビを振っている。「虹(へび)のはだ」「虹(へび)のひふ」と2回も出てくる。誤植? いや、誤植ではないのだろう。そのあとには「蛇身」ということばが出てくるがルビはない。「虹」を「へび」と読ませているのだ。
 この蛇と虹という文字は、とても似ている。
 私は目が強くないので、こういう文字に出会ったときは、目がくらくらしてしまう。ことばの錯乱だけではなく、文字の錯乱のなかにもまきこまれてしまう。そして、思うのだ。この錯乱のなかに、逸脱することばの力だけが触れることのできる真実があるのだと。
 ことばは逸脱する。逸脱しながら、「いま」「ここ」にないものをつかみ取る。「いま」「ここ」にないものは、嘘かもしれない。しかし、私はそれが嘘であっても真実だと思う。「嘘であっても真実である」というのは矛盾した表現だが、それを言い直せば、嘘であっても、そこには明確な運動があって、その運動自体は真実である、ということになる。真実とは固定したものではなく、ある動きなのだ。何かをつかみとろうとする意志の動き、それを追いかけることば、その力--ことばには、「いま」「ここ」にないものを追いかける力がある、その力の発露としての運動は、いつでも真実である、という意味になる。
 どこまで逸脱していけるか。ことばの自律力にまかせて、どこまで逸脱できるか。詩は、その方向にしかない。

 ことばは逸脱する。しかし、同時に、ことばには逸脱を許さない力が働く。社会に流通するという「命題」のようなものがある。八重が書いていることばで説明すると、「虹」を「へび」と読ませるのは間違っている。「へび」を「虹」と書いてはいけないという「ルール」のようなものがある。それを、どんなふうにたたき壊すことができる。そのルールから、ことばの自律力を解放する方法としてどんなものがあるか。そういう方法を獲得するために、詩がある。
 逸脱する力は、いつでもかっこいい。かっこいいものは美しい。

 「現代詩は難解である」とは昔いわれたことばである。「難解」とはかっこいいことだ、と私は思い、自分の中で言い換えてきた。逆から言えば「かっこいい」は難解である。古い古い例で言えばビートルズは「かっこいい」のは「難解」だからである。「難解」とはようするに、いままで知っているものとは違っているので、いままでの基準では判断できない。いままでの判断基準を逸脱している、ということである。そういうものは、いつだって「かっこいい」のである。そして、この「かっこよさ」(難解)は、ことばでは吸収できない。肉体でしか吸収できない。肉体で奪い取ることしかできない。「かっこいい」を消化するために、肉体はいろいろ無理をする。聞き慣れない音を声にしてみる。髪をのばす。そんなことをして何になる?というようなことをしつづけて、わけのわからないものを消化してしまう。

 詩にも、そういう動きがあるのだと思う。
 
 


しらはえ
八重 洋一郎
以文社

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