まったくおもしろくない。
原因はひとつ。映画がただひたすらストーリーを追うのに忙しくて、映像に余裕がないからである。
唯一おもしろいのは、ベンジャミンを老人施設の入居者だけが何の驚きもなく受け入れるところである。老人の姿をした新生児を見て、彼もまた自分たちと同じように死んでいく人間である。死を共有している人間だから、「仲間」である、そう感じてベンジャミンを受け入れる。彼等の、ベンジャミンを「赤ん坊」ではなく、老人として見る目付き、そのときのやすらぎ(死ぬ仲間がひとり増えたという喜び)の一瞬だけが、映画らしいシーンである。自分は死にたくはない。けれど、他人が死んでいくのを見ると、自分はまだ生きていることを実感できる。私よりも先にこの赤ん坊は死ぬ--そういう、一種の期待の目でベンジャミンを見る老人たち。そのシーンだけが、あ、これはもしかしたらおもしろくなるかもしれない、という期待を抱かせる。
そのあとは、死も生も共有されない。
よく言えば、次第に若返っていくベンジャミンの「生き方」が、死に向かって生きるしかない人間を相対化するということになるのだろうけれど、こういう相対化というのは映像では表現がむずかしい。相対化というのは視覚ではなく、言語(ことば)によっておこなわれることである。論理によって築かれる間接的なものである。視覚は、間接的ではない。直接的である。直接見えるものが、その影にあるものを隠し、そうすることでだますこともある。それが視覚の性質であり、そういう「だまし」があるから映像はおもしろいのである。
この映画は、そういう「だまし」をひとつひとつことばで実はこうです、と説明する。だからおもしろくない。ごくごくつまらない例でいうと、ベンジャミンが娼婦とセックスするシーン。ベンジャミンは年をとって見えるが実は10代である。何度でもセックスできる。果てても果てても、果てない。それに対して、娼婦があきれかえって「あんたは、○○なの?」(ひとの名前を言ったが、思い出せない。アメリカのドン・ファンだろう)というようなことを言う。そんなことばで、実はベンジャミンは10代です、10代の男は性欲の塊だと言われても、それは「相対化」にすらならない。映像で、それを感じさせないと映画にならない。
ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの「恋愛」はもっと無様である。無残である。二人の恋愛は、年齢(容貌)としては逆方向から接近し、二人が一番近づいて時、燃え上がるのだが、そのあとすぐ、「これから二人の若さは逆転する。それが心配だ」とケイト・ブランシェットが言う。それが真実だとしても、いや、真実だからこそ、そんなことはことばにしなくていい。観客は、そういうことを知ってしまっている。そして、それがどうなるかを映像として見たいから映画を見たいのである。ことばで説明されても映画を見ている気持ちにはなれない。単なるメーキャップショーではなく、動く映像として見たいのである。
繰り返しになるが、この映画は、ようするに「ことば」に頼りきった作品であり、映画の体裁をなしていないのである。ストーリーがベンジャミンの「日記」を読む--日記を映像として再現するというスタイルをとっている出発点からして、もうすでに失敗しているのである。ことばをとおして、ベンジャミンの娘が、自分の父はベンジャミンだったと知るというラストなど、まるで笑い話である。「見て」、知る、というふうにしないと映画にはならない。原作とは違ったとしても、そういう工夫をしないことには映画にはならない。老人の姿をして生まれた子ども--という特異な映像(視覚で判断した状況)から出発しながら、視覚は重要な働きをしていない。
デビッド・フィンチャーらしい点があるとすれば、室内の暗い映像だろうか。暗さによって現実感をだす室内。しかし、これもたとえば、「長江哀歌」や「歩いても 歩いても」の使い込まれた家具の、必然的に抱え込む汚れ、疵の美しい映像を知ってしまっている私には、「セブン」の二番煎じにしか見えない。何も新しいものはない。メーキャップはがんばっているのだが、せいぜいが、あ、ブラッド・ピットってこんなに若いの?とファンを喜ばせる程度のものである。
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デビッド・フィンチャーを見るなら、やっぱりこれか……。
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