梅田智江『梅田智江詩集』(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

梅田智江『梅田智江詩集』(2)(右文書院、2008年08月15日発行)

 梅田智江は膵臓癌で死んだ。同じ病気で父を亡くしている。その父を描いた作品。「質問」。全行。

父は
膵臓癌で
数日の命だった。

母は
トイレにかけこんでは
泣き
顔面神経痛の笑顔で
病室に戻っては
笑った。

妊娠九ケ月の姉は
妊婦用の
喪服がなかった。

デパートに求めにいき
その足で
見舞った。

「よい生地があった?」と、母は尋ねた。

うらうらと
明るい午後の日差しだった。

ベッドの上で半身になり
やぎのような
やさしい眼で
父は聞いた。

「何を話しているの?」

嘆くことは 何もなかった。

 「嘆くことは 何もなかった。」と書いているが、これはほんとうのことではない。父が死ぬ。それは嘆くべきことである。けれど、「嘆くことは 何もなかった。」と書くしかないのは、「嘆く」ためのことばがみつからないからなのである。ことばはいつでも遅れてやってくる。ほんとうに必要なことばは遅れてやってくる。間に合わない。正直な梅田智江は、その「間に合わなかった」状況をそのままことばにしている。ことばをむりやりひねり出すのではなく、そのとき、そこにあらわれたことばだけとていねいに向き合っている。
 ひとは、いつでも、そういうものだ。
 トイレにかけこんで泣き、涙を拭いて病室で笑顔をみせる母。それは、彼女がそのときにできる唯一のことなのだ。ほんとうはもっと何かができた、あれもできた、これもできた、とあとから思うことはできる。思いはことばと同じように、やはり遅れてやってくるのである。
 私たちは、いつでも、その場その場でできることしかできない。妊婦用の喪服を買いに言ったり、それが「いい生地かどうか」尋ねたり、死んでいくはずの父がのんきに(?)「何を話しているの?」と聞いたり。
 それは矛盾している。しなければならないことから逸脱している、という意味で矛盾している。ほんとうはもっとほかのことをしなければいけない、と、こころは叫んでいるのに、そういうことしかできないというのは矛盾している。ばかげている。
 だが、そういう矛盾にこそ、思想がある。「肉体」としての思想がある。
 こういう矛盾をくぐりぬけないことには、「時間」はくぐりぬけられない。いつまでたっても「死」はやってこない。矛盾をくぐりぬけて、何もかもが過ぎ去ったあとで、あのときはこんなことをした。こんなばかげたことしかできなかった、とふりかえる。そのときに、明るい時間が流れる。「いま」と「過去」が和解し、その和解の中に「永遠」がふっと姿をみせる。そして、その瞬間、「嘆くことは 何もなかった。」が輝く。真実になる。
 そうなのだ。嘆くことは何もないのだ。それは「いのち」の記憶として、ずっと生き続ける。どんなときにも、矛盾を生きることができる、矛盾を生きた、その一瞬こそ、実は「いのち」と「いのち」が触れ合っていたということがわかる。父が死んで行く、その瞬間。そのとき。梅田智江は、母は、姉は、そして父は互いに触れ合って生きていた。それぞれ「悲しみ」を隠して、平穏に、明るく生きていた。その、不思議な矛盾。それが、たぶん、生きるということのすべてなのだろう。
 詩を書くことは、矛盾を書くことである。矛盾を矛盾のまま、正確に書くことである。その矛盾をへて、やがて真実が、永遠があらわれる。それがどんなものであるかは、そのときはわからない。わからないと正確に書き、わからないことのなかで起きていることを正直に書く。

 梅田智江は書くことで正直になり、正直だけがつかみうる「いのち」という永遠に触れたのだと思う。死を描きながらも、そこには「いのち」の讃歌がある。「いのち」の讃歌かあるからこそ、死を真っ正面からみつめることができる。
 すばらしい詩を残してくれたことに、こころから感謝したい。ありがとう。梅田智江さん。




変容記
梅田 智江
沖積舎

このアイテムの詳細を見る