連中は車付きの寝台を裏口からひそかに持ち込んだ。こちらはシャッターの隙間からじっと見てた。一人が戻って来た。
何か忘れたのだな。櫛か。表の街路では
シーツの白さが目にしみる。まだ通りの明かりは消えていない。
「やる時間があるか。気になるな」と一人が言った。消えた煙草をくわえてた奴だ。
「俺だ」と彼は言った、「連中はなんでやっこさんをかくさにゃならんのだ?」。その後ろで女が腰をかがめた。太ももがすったり見えた。通りの反対側から大きい犬が近寄ってきた。歯にくわえているのは、車付寝台にねている奴の顔と同じ仮面じゃないか。
突然、強力照明が五つ、ぱっと点いた。その下にいた、微動もせずに、
秘密警察が。新品の黒い帽子。こちらは急いで
シャッターの隙間から逃げる。部屋は隅から隅まで照らされてる、
光の線や帯で--。気づかない失敗の下に強調線を引いてるみたいだ。
テーブルの上には宝石箱と鍵とあいつの靴片方。
*
リッツォスの詩には映画的なものが多い。この作品もそうである。舞台(芝居)というより、映画、と感じる。それはアップがあるからだと思う。舞台にはアップはない。しかし、映画にはアップがある。
3行目の「櫛か。」という短いことばが特徴的だ。それは舞台では見えない。映画でなら櫛のアップで、それがわかる。しかし、それは実は「スクリーン」には映し出されない。詩、だからである。ことばは意識のなかでクローズアップするだけである。ここにリッツォスの詩の一番おもしろいところがある。単なる映画ではなく、意識のスクリーンに映し出される映画なのだ。
いったん意識のスクリーンが目の前に広がると、あとはカメラは自在に動く。つまり、遠近を自在に動く。ロングもクローズアップも、何の障害もない感じで動き回る。急速に動く。
街路。シーツ。明かり。そして「消えた煙草」、しかも「くわえてた」という描写。「もの」から「肉体」へ、「肉体」から「もの」へ。その動きの間に「こころ」が差し挟まれる。つまり、「ことば」が。何を言っているのか、そのほんとうの「意味」はわからない。「意味」を超えて、そのときの、映像のアップがかってに物語をつくっていく。
そして、それは「事件」。物語を超えて、もっと想像力を刺激するものだ。
意識のスクリーンに映し出される「事件」であるからこそ、何もかもが猛スピードで動く。次々に目新しいものをカメラはクローズアップで映し出す。新しい「もの」と「もの」、映像と映像は、長回しではなく、短いカットの連続だ。カットとカットの間には暗い暗い闇があって、その闇を想像力が駆け回る。ことばはストロボ照明のように強烈に「もの」を映し出す。
光の線や帯で--。気づかない失敗の下に強調線を引いてるみたいだ。
ああ、しかし、映像だけではない。映像の洪水の中に差し挟まれた、ことば。ことばでしか表現できない意識の動き。意識のクローズアップというより、意識の井戸を深く深く掘って、その瞬間にあらわれる冷たい冷たい水のような新鮮さ。
なんとうい美しさだろう。
そういう意識の、一種の裏切りのような鮮やかな超越。映像と意識の固い結びつき。
そして、もう一度、映像に戻ってくる。その、余韻の孤独。ほうりだされた悲しみのような、未練をひっぱる何か。映像とこころが結びついて、そこに広がる余韻。
テーブルの上には宝石箱と鍵とあいつの靴片方。
いいなあ、このエンディング。このラストシーン。「片方」という不完全さが、完全さを逆に描き出す。こころのなかに。完全なものがあるのに……という悲しみとして。