温泉。露天風呂。夜、その湯につかりながらの思いを書いている。そこに「久しい」ということばが出てくる。その「久しい」が美しい。
唐突に
久しいという思いがする
(略)
不思議だ
あと三日したら新幹線あさまに乗って家に帰る
それも不思議に思える
水に打たれる羊歯を湯に浸かり見つめていると
それら一連のことが
そうしていつか
忘れてしまうのだろう
そうしてある日
唐突に
姿を見かけなくなって久しいものが
遠く影を傾け
なつかしさとさびしさの飛沫を浴びせるのだろう
細く暗い空洞のような空を
いつ星は渡るのか
「久しい」という感覚は、「忘れてしま」ったあと、唐突にやってくる。そして、それは「なつかしさとさびしさ」が入り交じったものであると伊藤は言う。この「さびしさ」の感覚が、いつも伊藤のことばにはある。「さびしさ」がどこか遠くから響いてくる。その前に迫ってくるのではなく、どこか遠くから響いてくる。「久しい」どこかから響いてくる。それは空間の「距離」ではなく、「時間」の隔たりなのである。
「時間」というのは不思議だ。「隔たり」があるようで、はっきりとはつかめない。10年前と3日前の思い出を比較してみるとわかる。10年前を思い出すとき、3日前を思い出すとき、その「10年」と「3日」の間にある「隔たり」に「差」がない。同じように、瞬時に思い出してしまう。同じように、どれだけ頭をひねっても思い出せないこともある。「久しい」は「遠い」のか「近い」のか、ほんとうはよくわからない。
「遠い」か「近い」かわからないけれど、それは「私」とは確実に離れている。たしかに「隔たり」がある。その、どうしようもない「隔たり」ゆえに、人間は「さびしさ」を感じるのだ。
たどりつけない--そういう「孤独感」(孤立感)のようなもの、いっしょにいるのに、いっしょにいないともいえる不思議な孤独感。
そして、それは、「隔たり」がつかめないがゆえに、とても遠い遠いものに、直接触れる。けっして肉体では触れることができないものに、なぜか、肉体そのものとして触れてしまう。その遠いものとは、「宇宙」である。
伊藤は、書いている。
細く暗い空洞のような空を
いつ星は渡るのか
いつ星が渡るか、誰も知らない。けれど星が渡ることを知っている。この矛盾。矛盾のさびしさ、美しさ。それは、なぜか、「なつかしい」。
たぶん、生きるということは、そういうことなのだろう。なにかがそばにあることがわかる。それにはしかし触れることができない。ただ「記憶」として、「いのちの記憶」として、それを感じる。どんなものも、その「遠い」なにかを「いのちの起源」としていることがわかるのだ。だから「なつかしい」。
だが、いつ、私たちは、それに触れるのだろう。
同じ「ふらんす堂通信」に発表された「詩人の家」に次の行がある。
建物の黒さが夜と同一になるころ
内部の肋骨のような階段を
詩人はのぼっていく
満天に星屑のような鏡
そのひとつひとつが詩人を捉えている
「建物の黒さが夜と同一になるころ」。あ、そうなのだ。先に10年前の思い出と3日前の思い出について書いたが、「いま」と「10年前」、「いま」と「3日前」--その「時間」の「隔たり」が、その差が「同一」になる瞬間があるのだ。「いま」を起点にして、「隔たり」が消えてしまう瞬間があるのだ。そのとき、「同一」とは、実は「隔たりの距離」のことではなく、「思い出す」という行為そのものなのだ。人間の精神の動き、その動きそのものが「同一」になる。その「同一」は単に「私」ひとりのことではなく、あらゆる人間、あらゆる「いのち」にとって「同一」なのである。
そこでは、すべてが、見分けがつかない。
満天に星屑のような鏡
この矛盾したことば(論理的に矛盾したことば、錯乱したことば)の美しさ。天にあるのは、いうなれば「鏡のような星屑」だろう。けれど、そうではなく「星屑のような鏡」と錯覚する。その瞬間の「同一」。「星屑」と「鏡」の「同一」。「比喩」のなかにある別個の「もの」の「同一」。
比喩とは、あるものがまったく別のものと「同一」であるという認識によって生まれる。その「生まれる」という「いのちの運動」。それが、唯一の「同一」なのかもしれない。
伊藤は、そういう動きを、少し距離を置いて見ている。直接触れるのだけれど、ことばにするとき、どうしても少し離れてしまう。そこに「ひさしい」「なつかしい」「さびしい」が入り込むのである。
そして、そういうものが入り込むので、伊藤の世界は、なにかにさーっと洗われたように、清潔で美しいのだと思う。
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