集中営 リッツォス(中井久夫訳)
合図の笛。叫び。鞭の風を切る音。鈍い音。
水の逆流。煙。石。鋸。
殺された男たちの間に倒れた樹。
警備兵が死者たちの衣類を剥がす。死者たちのポケットから
ばらばらと音を立ててこぼれる。まず電話用のコインが一つずつ。
小さな鋏。爪切り。小さな鏡。
禿げた勇者の空っぽのかつら。
その藁くずまみれの長い髪。
こわれたコップ。針。
耳の上にはさんでいかタバコの吸いさし。
*
名詞の羅列で構成された作品。何の説明もない。けれども、そこから何人もの「死者」の物語や人間性が浮かび上がってくる。ことばが「もの」と対等に向き合うとき、その「もの」が持っている「時間」がことばをとおってあふれだす。そして、「時間」はいつでも「物語」になろうとする。「もの」自体の「物語」を超えて、読者がひそかに共有している「物語」を刺激して動きはじめる。リッツォスはいつでも「物語」を語るのではなく、読者の意識の中にある「物語」を刺激するのである。
たとえば「電話用のコイン」。男は誰かに電話をかけていた。かけることを日常としていた。それは妻か、恋人か。あるいは「爪切り」や「鏡」。身だしなみを大切にする人柄が浮かぶ。同時に、そんなふうにして日々を大切にして生きている感覚。さらには「かつら」「タバコの吸いさし」。そこにも「物語」がある。「タバコの吸いさし」も単なる吸いさしではなく「耳の上にはさんでいた」ということばがいっしょにあるとき、それは具体的な「肉体」と「くらし」を呼び寄せる。どうしても「物語」がそこからはじまってしまう。
その、どうしてもはじまってしまう「物語」をリッツォス自身は語らない。「空白」にしておく。「空白」だから、そこにはいろいろなものが含まれる。その「空白」にむけて、読者はどんな「物語」でも投げ込むことができる。
句点で区切られた。「もの」と「もの」。「ことば」と「ことば」。その間の「空白」。それは、私にはセザンヌの「塗り残し」の「白」にも見える。セザンヌはその「塗り残し」の「白」について、「それにふさわしい色が見つかったら、塗る」というようなことを言ったと思う。何色でもある「白」なのだ。
その「空白」はどんな物語を受け入れる「空白」なのである。