リッツォス「廊下と階段(1970)」より(6)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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本質的な   リッツォス(中井久夫訳)

彼はボタンをコートに縫いつける。
不器用な手つき。太い針。太い糸。
彼の独り言。

パンを食べたか。よく寝たか?
しゃべれたか。腕を伸ばせたか?
忘れずに窓から外を見たか?
微笑したか、ドアを叩く音を聞いて?

叩く音が間違いなく「死」でも、死は二着だ。
一着はつねに自由である。



 この作品も「意味」が強い。「思想」が強い。言いたいことは最終連の2行である。死を恐れない。自由を求める。そういう強い意志を語っている。
 その部分よりも、私は書き出しの3行が好きだ。ことばになってしまった「思想」よりも、ことばにならない行為の中の「生き方」が好きだ。不器用であっても、自分のことは自分でする。そこにこそ「自由」がある。太い針、太い糸は「不器用」にあわせて彼が選びとったものである。そういう選びとり方にこそ、ほんとうの思想がある、と私は思う。そういうものを短いことばでぱっとつかんで放り出すリッツォス。
 そして、同時に、そうした時代を生きる不安を、「本質」とからめながら書いた2連目もいい。食べる、寝る、しゃべる。それはたしかに人間の基本的なことである。基本的なことをできるのが自由である。そのあとに、二着に「死」がくる。