リッツォス「廊下と階段(1970)」より(5)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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パノラマ   リッツォス(中井久夫訳)

ハタンキョウの樹の列。
彫像の列。
雪をかぶった高い山。
墓の並び。
ハンターがオリーヴの幹に穿った孔。

晴れやかな美と晴れやかな果敢なさは
姉と妹のように矛盾し合う。
生の果敢なさと、死の果敢なさとは
まるごと矛盾する。

霊柩車は
ハタンキョウの花を載せて
通って行った。
彫刻は窓越しに
外を見張っていた。



 「廊下と階段」は死の色濃い詩集である。(中井が訳出している詩しか知らないのだけれど。)それも、天寿をまっとうしたという死ではなく、人生の半ばで死んで行った死。そういう死への追悼にあふれている。
 一方に変わらぬ自然がある。非情な自然がある。人間の作った「芸術」(彫刻、彫像)という非情もある。そのふたつの非情の間で、人間は生きている。これは、たしかに「矛盾」である。自然の美しさも、自然の美しさも、人間が「美しい」というから「美しい」。その「美しい」という人間だけが、そして死んで行くのである。自然も芸術も死ぬことはない。
 この矛盾を、リッツォスは「果敢なさ」と定義している。

 人間は、自分の人生をより「美しく」生きようとして、死んで行く。「美しく」生きようとすればするほど早く死んでしまう。それはたしかに「美しい」のだが、その「美しさ」は当人にはわからない。死んでしまうのだから。この矛盾。矛盾という形でしか定着しない真実--それを「果敢なさ」と定義しているように思う。

 きのう紹介した「軽率に・・・」で、その作品を「論理的」ということばでとらえたけれど、この詩集には、とても論理が強く動いている。感性よりも理性の方が強く動いているように感じられる。