リッツォス「廊下と階段(1970)」より(2)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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逃げられぬ・・・    リッツォス(中井久夫訳)

裏通り。通りの向う側。非常口が並んでる。
壊れた植木鉢。割れた水指し。
犬の死体。虫の死骸。死んでいる銀蠅。
金物屋たちがオシッコをしてる。肉屋も。旋盤工も。
こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。
星たちは叫ぶ。みんないなくなってしまうみたいに--。
銅像のことは二度と俺に言うな。そう彼は言った。我慢ならぬ。わかったか。
もう言い訳は利かぬ。下の大きな地下室では
やせた女たちが細長い腕でボイラーの煤を集めて、
さて、塗りたくる。自分の眼を、歯を、台所の戸を、水指しを、
こうすると見えなくなると思って、いや、目につかないくらいにはなると思って。
だが、彼らが壁に身をすりつけてひそかに出入りしても、
柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。
黄色い草むらの中で探照灯がくっきり照らし出す。



 短い単語を積み重ね、状況を描写する。しかし、説明はしない。この説明を拒絶した文体がリッツォスの魅力のひとつである。それは良質の映画のようである。いや、良質な映画がリッツォスの詩に似ているのである。
 「もの」にはそれぞれ「物語」がある。「時間」がある。そして、その「物語」「時間」は「もの」と「もの」との出会いで、一定のものが浮かび上がってくる。たとえば「裏通り」「非常口」「壊れた植木鉢」。そたには、隠れされた「物語」がある。人目にさらすことのできない「物語」というものがある。そこでは「オシッコ」をする人間もいる。見せるためではない。隠れた「暮らし」である。
 そういう状況を描写したあとで、人間が動き出す。そこでは、どうしても人間は隠れた動きをする。隠れた動きをするしかない「時代」なのだ。隠れても隠れても見つけ出されてしまうが、それでも隠れて暮らすしかない悲しみ。
 そうしたことばのなかにあって、

こどもたちは夜脅える。星たちがあまり大声で叫ぶから。

 がとても美しい。チェホフの短編だったと思うが、泥棒が跋扈しているとき、星が美しく輝いているという描写があった。泥棒に脅える人々。泥棒。そういう人間とは無関係に(非情に)、星は輝く。そこに宇宙の美しさがある。その絶対的な美しさをこどもは無意識にかんじとってしまい、脅える。
 同じように、

柱廊の鏡、骸骨のような鏡が迫ってくる。

 もとても印象的だ。「鏡」の非情さ。何もかも映し出してしまう非情さ。人間は、そういう非情なものといっしょにくらしている。非情さが人間のかなしみを洗い清める。