一九七〇年、アテネ リッツォス(中井久夫訳)
この街の通りを
人々が歩いている。
人々が急いでいる。
急いで去ろうとする。(何から)去ろうとするのか?
(どこへ)向かおうとするのか?
私は知らない--顔も
--真空掃除機、長靴、箱--
彼等は急ぐ。
この街の通りを
大きな旗とともに過ぎた
過去の日(思い出す、聞いたものを)。
その時の彼等は声を持っていた。
ちゃんと聞こえる声を。
今、彼等は歩く、走る、急ぐ。
急ぎつつ不動。
列車が来る。彼等は乗る。押し合う。
信号が青から赤に。
車掌はガラスの仕切りの後ろ。
売春婦、兵隊、肉屋。
壁は灰色。
時間よりも高い壁。
彫刻の像よりもものが見られないところ。
*
ギリシャの現代史を知っているひとなら、この作品の背景がわかるかもしれない。私はギリシャの現代史を知らない。
ここに書かれていることばだけを手がかりに言えば、過去にはギリシャの街、アテネを「大きな旗」が通りすぎた。そのとき、人々は声を持っていた。声とは、主張である。いまももちろん主張はあるだろうが、それを声にするひとはいない。だから、何も聞こえない。
過去にははじめて出会うひとも、みな知り合いだった。同じ目的(同じ主張)を持っていて、顔がわかった。いまは、顔の知らないひとばかりだ。つまり、主張のわからないひとばかりだ。彼らは無言で歩く。急ぐ。
最後の3行が、とても切ない。
そこには具体的なことは何も書かれていない。リッツォスのことばは「もの」としっかり結びついたものが多い。「もの」のなかには「過去」があり、「物語」がある。しかし、この3行に登場する「壁」は「過去」をもたない。いや、もちろん「過去」はあるのだが、それは閉じ込められている。その「物語」は現実のなかに溢れ出て来ようとはしない。しっかりと「過去」の扉を閉ざしている。そのしっかり、「過去」をとざしているという感じ、それがわかることが切ないのだ。
どんな「もの」のなかにも「物語」はあって、それはいつでも、現在を突き動かして未来へゆきたいと願っている。それができず、ただ閉じ込められている。
「過去」を未来へ向けて解放し、突き動かすことができない--というのは、「夢」を見られないということである。「彫刻の像」は肉眼をもたないが、その作品のなかには「夢」がある。「理想」がある。(それは、作者が託した「夢」であるが。)その「彫刻の像」さえもが見ることのできる「夢」を、いま、アテネを行き来する人々は見ることができない。
厳しく、寂しい、いま、という時間。