岡井隆「牛と共に年を越える」 | 詩はどこにあるか

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岡井隆「牛と共に年を越える」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 岡井隆の作品を読むと、いつも「おとな」ということばを思う。たとえば、きのう感想を書いた辻井喬の作品。そこでは、私は「思春期の少年」を感じた。岡井のことばの運動からは、そういうものを感じない。ゆるぎない「おとな」を感じる。
 「牛と共に年を越える」の書き出し。

鴎外全集を奥へ移し植ゑたりやうやく出来た自分の本を平積みにしたり本林勝夫(斎藤茂吉研究の先達)の詩を悼んだり新旧二鉢のポインセチアをベランダから部屋へ入れたりだしたりする妻を見たり見なかつたりする織物みたいな水みたいな複数の時間それを透視したりしなかつたりしろがら新しい年を呼び込まうとしてゐた
 
 2009年のエトが「丑」であることを頭のなかに思い浮かべながら、2008年の年末、あれこれしている「暮らし」を描いている。そして、こんなにいろんなことを「したりしなかつたり」しているのに、岡井は少しも変化しない。「鹿」になったりはしないし、「妻」を「兎」や「鷲」のようにも考えず、「妻」は「妻」、「岡井」は「岡井」なのである。そして、岡井は変化はしないけれど、状況(現実)の方は変化しているから、岡井のことばはどうしたって、その現実の変化にあわせて動いていく。ことばは動いていくが、岡井はおなじところにとどまっている。不動である。
 途中省略して、最後の部分。

昔は荷を負つた牛が坂の途中に行きなづんだこの国では少年の頃のペットの非業の死を遠くまでひきずつたあげく人をあやめて留置されて越年する青年がゐる そんなあかつきの冷気に耐へながら木下杢太郎全集を鴎外全集の蔭に置かうかどうか迷ひつつタトヘバヴィルヘルム・ハンマースホイのなにもなくて妻だけのゐる室内の絵にいたく感動して帰つて来たもののまだ越年には数日かかるのだ

 ことばを書いているうちに、書いている本人そのものが、書く前の自分とは違った存在になる--というのが、たぶん「文学」のおもしろさ、詩のおもしろさなのだと定義できる。そういう定義からすると、岡井の作品は「文学」ではなく、辻井のような作品の方が「文学」ということになるのだけれど。
 なぜか、私には、岡井の作品の方が、辻井の作品よりはるかにおもしろい。読みはじめるとやめられない。
 岡井自身がかわらないのに、なぜおもしろいのか。
 先に書いたことと重複するが、状況の変化によって、岡井のことばが、きちんと(?)動いていかないからである。状況にひっぱられて、書くつもりがなかったこと(たとえば、ペットを処分されたことを恨んで殺人を犯した青年)を書いてしまう。状況に誘われるままに、ことばが動いていくからである。そして、そのときのことばが、不思議と不動のものを感じさせるからである。不動というと少し語弊があるかもしれないけれど、歴史というか、「文化の蓄積」を感じさせるからである。たとえば「あやめて」。殺人(殺害)と書かずに、岡井は「あやめて」と書いている。もちろん「あやめて」に日常でつかわないことはないけれど、普通の人は(とくに殺人事件のようなときには)「あやめて」ということばをつかわない。
 そういうことばが作品のなかに出てくると、「いま」という「時間」が、「いまではない時間」(たとえば「過去」)と連結し、あ、すべてはこうやって歴史になっていく、という気がしてくるのである。その「歴史になっていく」という感じが、何かに「固定されていく」という感じが、「不動」の感じと重なり合う。岡井がつかっている「旧かな」も、そういう働きをしているかもしれない。
 そして、そんなふうに「いま」が「いまではない時間」と結びつくことで、「いま」が「ひとつの時間」ではなく、「複数の時間」に見えてくる。(「複数の時間」は、最初に引用した部分にでてきていた。--たぶん、岡井のキーワードは「複数の時間」である。)「いま」生きている時間には、それぞれ「根っこ」がある、人間はその「根っこ」から派生するものを繰り返している、という気持ちになる。
 たしかに人間は、「ひとつの時間」ではなく、いくつもの時間を同時に生きている。そして、その時間のどれもが、「いま」「私」がやっていることなのに、かならずすでに誰かがやっていしまっている「時間」なのである。新しいようにみえても、それはすでに存在した「時間」なのである。
 岡井は、そういう「存在した」ことのある「複数の時間」を次々に岡井のなかから噴出させる。岡井の「肉体」のなかから噴出させる。「肉体」なかから、というのは、「過去」の「文学」のいくつもの時間が、岡井の肉体にしみついているからである。そういものが「存在した」ということを岡井は「肉体」として知っている。斎藤茂吉も万葉集も、「本」を取り出さなくても、次々に「そら」で結びつくのである。
 そんなふうに、自分は動かず、自分のなかにある「複数の時間(歴史)」をぱっぱっと噴出させて、状況をわたってゆく。そのことばのさばきに「おとな」を私は感じる。あ、「おとな」はこんなに沢山の時間を生きている。ひとつの時間にしばられず「複数の時間」を生きて、けっしてゆるがない。すごいなあ、と感動するのである。


限られた時のための四十四の機会詩 他
岡井 隆
思潮社

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