リッツォス「棚(1969)」より(3)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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これとこれとこれ    リッツォス(中井久夫訳)

夜。巨大なトラック。高速道路を高速で。
積み荷がガスマスク。バラ線のドラムだ。
明け方、石造りの建物の下で彼等はバイクにエンジンをかける。
蒼ざめた男が一人。赤いチュニクを着て屋根に登り、
閉じた窓々を眺め、丘のたわなりを眺め、痩せた指で指さしつつ、
ずっと前から使われていない箱小屋の孔の数を一つ一つ数えている。



 リッツォスの特徴があらわれた作品だ。「説明」ぬきの描写。この場合、「説明」とは「物語」と同じ意味である。どんなことがらも、それぞれに時間を持っている。時間とともに「物語」を持っている。あらゆるものは、ある意味で「物語」を持っている。
 高速道路を走るトラックはどこへ向かっているか。なぜガスマスクを積んでいるか--そこからたとえば内戦の一つの作戦が浮かび上がるかもしれない。「高速道路を高速で。」とわざわざ書いてあるのは、それが普通の高速ではなく、規制速度をオーバーしての「高速」という「意味」だろうから、そこからも何かが暗示されるだろう。
 リッツォスは、そういう暗示を最小限に抑える。「説明」を拒絶する。
 そして、「もの」に「もの」を、「描写」に「描写」を対比させる。俳句の、異質なものを二つ取り合わせ、その一期一会の瞬間に、世界が遠心・求心によって切り開かれる瞬間をつくりだす。
 この詩では、不気味な「巨大なトラック」、それに対して小さな「バイク」。「夜」に対して「明け方」。「蒼」に対して「赤」。「閉じた窓」に対して「丘のたわなり」の広がり。そういう何か波瀾を含んだ対比の世界全体(聖)に対して、「鳩小屋の孔」という「無意味」な「俗」。
 「聖」と「俗」をぶつけることで、世界を解放しようとしている。「意味」から解放しようとしている。
 リッツォスは、その解放感のなかに、詩を感じているのだ。