岡島弘子「あまい滴」の最後の2連。
カワセミのかわいたのどをうるおし
ごくりとのみこまれる一瞬だけ
あまい滴になれる
そして 忘れ去られる
どじょうは 私
この最終連について、私はきのう、この行に隠されていることばは「である」ではない。「どじょうは 私である」というのではない。ここでは、岡島は「どじょうは 私になる」と言っているのである。言い直せば、「私は どじょうになれる」とカワセミに恋を、いや、生きているいのちのかぎりを打ち明けているのである、と書いた。
重要なことば、「肉体」にしっかり身についていることばはいつでも、この最終連のように省略されることが多い。書いている本人にとっては、それは自明のことであり、他人にことばにして伝える必要がないからである。こういうことばを私は「思想」と呼んでいる。
そして、この省略された「私はどじょうになれる」はまた「私はどじょうになりたい」である。願望である。祈りである。だからこそ、これは恋を、いのちを打ち明けている詩だといえる。
恋はいつでもことばにならない。恋はいつでも当人にとっては自明のことだからである。だから大切なことば、しってもらいたい声はことばにならずに省略される。そして、その省略ゆえに、伝わらない。
そうやって、「忘れ去られる」。
せつない余韻が残る。
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