リッツォス「反復(1968)」より(5)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

アルゴ船の没落    リッツォス(中井久夫訳)

今宵、歳月の過ぎ、物事の過ぎ行くを語るのは軽薄だという気がする。
よしんば美女のことであっても、功業でも、詩でさえも。
思い起こす、あの伝説の船が、さる春の宵だ、コリントに運び込まれた時を。
船虫にむしばまれ、塗料はあせ、櫂受けは割れ、
継ぎはぎと孔と記憶に満ちて--。
さて古いアルゴ船はポセイドンの神殿への壮大な捧げ物になった。
森を通る長蛇の列、松明、花輪、横笛、若者の競技、
美しい夜だ。祭司らの歌う声。
神殿の破風から梟が一羽鳴いた。踊り子は軽やかに船上で踊った。
ありもしない櫂と汗と血の荒々しい動きを模しつつ、そぐわない優雅さで踊った。
それから老水夫が一人、足許に唾を吐いて木立に歩み寄った、小用のために。



 この詩は最後の1行がとりわけ美しい。俳句のようである。ふいに異質なものが登場し、一気に世界を凝縮し、同時に解放する。遠心と求心。その動きが1行に満ちている。
 日本語の詩に「俗」を持ち込むことで世界を活性化させたのは芭蕉だが、こういうことばの動きは世界各地にあるのかもしれない。「俗」あるいは「卑近」なものが、人間の「肉体」を呼び覚まし、いま、ここに存在する「精神」に対して拮抗する。その瞬間の「笑い」、「笑い」という解放。
 戦いに勝利と敗北があるように、あらゆるものに相反するものがある。それは同じ強さで絡み合っている。そのからみあいが、遠心・求心という形で一気に生成する。

 前半の倒置法の緊張がとても効果的だと思う。
 倒置法によって、ことばというか、ことばを追う精神は緊張する。ことばがおわった瞬間、頭の中でことばが動く。ふつうの(?)文法に沿って。「思い起こす、あの伝説の船が、さる春の宵だ、コリントに運び込まれた時を。」は「さる宵に、あの伝説の船がコリントに運び込まれた時を思い起こす。」という具合に。無意識の内に、頭は運動する。ことばを追いながら、自分流に組立直すという運動を。
 散文は頭を自然に導くが、詩は頭をかき回しながらひっぱって行く。「ジュリアス・シーザー」(シェークスピア)のアントニーとブルータスの演説の違いのように。
 そして、「俗」は詩で緊張した頭にはとても効果的だ。とてもよく響く。

 倒置法の「詩」と「俗」を拮抗させた中井の訳はとてもおもしろい。