この映画は人間を描くというよりも、「情報」を描いている。現代をとても象徴している。現代を象徴した映画である。
俳優は一生懸命がんばってはいるが、その背景から「情報」を取り去ると、とてもつまらないものになる。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウも単なる情報であって、人間ではないのである。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウの活動ではなく、中東の街の様々な表情、空気の色、偵察衛星の映像、CIAが集めている情報、何台もの車、軍人、警官、テロリストの顔、顔、顔。そういうものが映像の奥で繋がって、映画に厚みをもたせている。映像は、そういう細部をしっかりと描いている。それらがどう繋がっているかという説明は省略しても、実際に見える「もの」の情報だけはふんだんにあふれかえさせている。テロリストの流す緊張した汗や、爆発、けがをした人々の悲惨な姿、壊れたビルがストーリーをつくる。あふれかえるものの情報が、かってに(?)といえるくらいに濃密なストーリーをつくる。レオナルド・ディカプリオ、ラッセル・クロウは、いわば脇役である。情報のひとつである。この映画は情報量の多さで、観客を圧倒するのである。それがこの映画のつくり方である。
象徴的なのは、映画の最大の「嘘」に関係している。映画の中で、建築家がテロリストにでっち上げられる。建築家を偽のテロリストに選ばんだのはディカプリオを初めとする「人間」ではなく、コンピューターが蓄積しているデータである。ふんだんな「情報」を利用して、現実とは無関係にひとつの情報世界を作り上げてしまう。ニュースをつくりあげてしまう。そして、ひとは(ほんとうのテロリストも)、それに操られてしまう。人間と人間の関係よりも、ものの情報が世界の深部を構成し、関係を作り上げる。
だからこそ、ラッセル・クロウがほとんどアメリカにいて、中東にいるディカプリオに指示を与えることができる。ものの情報は、「頭」のなかで簡単に距離を短縮する。現実の「距離」は関係がないのである。情報は情報とむすびついて、世界になる。
そしてこの映画がおもしろいのは、そういうアメリカスタイルの「情報」ストーリーを展開する「場」が中東であるということである。「コーラン」などを読むとわかるが、アラブというのは「情報」を重視しない。というよりも、人間と人間の直接関係を(あるいは神と人間の直接関係を)大切にする。アラブのキーワードは「直接」なのである。実際、この映画でも、ヨルダンの諜報機関がとる方法は「直接」人間を利用するという方法であって、その点がアメリカスタイルとはまったく違う。アメリカスタイルでは中東の問題はけっして解決できない--ということまで、この映画は「情報」として提供している。だからこそ、現代を描いている、といえる。
映画そのものは、情報の展開に忙しくて、人間そのものの味わいに欠けるけれど(「バンク・ジョブ」とはその点が違うが)、アメリカとアラブの世界観の違いをくっきり浮かび上がらせ、それを自然にテーマにしてしまうところは、とても興味深い。エンターテインメントなのか、政治告発なのか、という点が、まあ、あいまいではあるのだけれど。しかし、この濃密な情報量の映画というのは、やはりハリウッドならではなんだろうなあと思う。
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