救済の途 リッツォス(中井久夫訳)
大嵐の夜に夜が続く。孤独な女は聞く、
階段を昇ってくる波の音を。ひょっとしたら、
二階に届くのでは? ランプを消すのでは?
マッチを濡らすのでは? 寝台までやって来るのでは?
そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。
ただ一つ黄色い考えしきゃ持たない男の--。このことが女を救う。
女は波が退く音を聞く。女はテーブルのランプを見つめる。
そのガラスは少し塩が付いて曇っていませんか?
*
この作品も、前半と後半が違っている。違った印象を与える。
前半は夜の描写。後半は女の空想。しかし、よく考えてみれば、前半も女の想像力の世界かもしれない。女は波を具体的に見ているわけではない。音を聞いて、その波が襲ってくることを想像しているだけである。「そうなると」以下も、空想という点ではおなじである。同じ空想なのに、なにかが違う。なにが違うのか。
前半は、そこにあるもの、近くにあるものを想像している。それがどんな形をしているか、どこまで迫っているかを想像している。後半は「不在」を想像している。「溺れた男」は女の近くにはいない。ここにないもの、「不在」を想像していることになる。
「不在」を想像することが、女を救っている。女の不安をやわらげるきっかけになっている。そして、その「不在」は「非在」でもある。存在しないだけではなく、存在し得ない。「海の中」の「ランプ」はもはや「ランプ」ではない。明かりを点すことができない。けれども、その「非在」を「存在」として人間は想像することができる。海なのかで、なお、黄色い明かりを点していることができるランプというものを人間は想像することができる。なにも見えないのに、ただ、黄色い光が見える。荒れ狂う海の中に、ランプが黄色く点っているのが見える。
あ、これは素敵だ。
この、現実には存在しないはずの、海のなかのランプを見ることができる、その不思議さが女を救済する。人間の想像力を楽しいものにする。海の中でランプが黄色く点っているなら、女はそのランプと一緒に生きることができる。男と向き合うように、ランプと向き合って。少しばかげた(?)考えを持っている男を楽しく見つめるみたいに、ランプと向き合って見つめることができる。
これは楽しい空想である。
この楽しい空想の出発点の、「そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。」がとても美しい。「そうなると、」という口語が楽しい。
最終行も、とても美しい。「そのガラスは少し潮が付いて曇っていませんか?」の「いませんか?」という口語がやわらかくて、とても気持ちがいい。
中井の訳は、ことばが自在である。漢語も出てくるが、この詩にあるように、口語のつかい方がとても気持ちがいい。口語が、深刻な状況、危険な状況(嵐)を、かるくいなしていく。「頭」で考えると、恐怖に陥ってしまうが、「肉体」で受け止めると、なんとかなるさ、という気持ちになる。
「頭」(知)ではなく、なにか別のものが人間を最終的に救済するのだ、という感じがする。そういうきっかけのようなものを、私は、中井のつかう口語に感じる。