リッツォス「証言C(1966-67)」より(4)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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ナルシスの没落    リッツォス(中井久夫訳)

しっくいが壁から剥がれ落ちている。そこも、ここも。
ソックスとシャツが椅子の上に。
ベッドの下にはいつも同じ影。気づかれないが。
彼は裸体になって鏡の前に立った。できるだけしゃきっとしようとした。
「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。
テーブルの上にあったレタスの大きな葉を一枚むしって
口元に持って行き、しゃぶり始めた。裸で鏡の前に立ったまま。
自然な態度を取り戻すか、せめて芝居をしようとして。



 最後の行に詩がある。「自然な態度」と「芝居」は矛盾する。その矛盾の中に詩がある。矛盾は、それを乗り越えるとき、そこに思想が生まれるからである。矛盾は、それを乗り越えるとき、「肉体」になるからである。それがどんな形の「肉体」かはだれもわからない。その「肉体」の手がどんなふうに動くことができるのか。なにをつかむことができるようになるのか、だれもわからない。
 その、わからないものが始まる一瞬が、最後の行の矛盾に凝縮している。
 さらにいえば、「せめて」に凝縮している。
 「せめて」ということばは、矛盾したものを並列するときにはつかわない。逆に、同列のものに対してつかう。1万円、せめて5000円あれば。目標(?)があって、それにおよばないまでも、それに近く……。こういうことばは、矛盾したものを並列するときには、そぐわない。間違っている。
 けれど、「あえて」、あるいは「わざと」、そう書くのである。そのとき、矛盾が、かけ離れた存在ではなく、とても近いものになる。ほとんど融合しそうなものになる。そして、そのとき、あらゆるものが「近い」存在として浮かび上がる。隣り合い、いつでも入れ替わるものとして浮かび上がる。
 そういうもののひとつが、ナルシスの美である。

 自分が自分にみとれてしまう美。それは、それ自体矛盾である。だから、そのなかで「自然な態度」と「芝居」が近接し、同居してしまうことにもなるのだ。

 この詩の中では、しかし、私は最後の行よりも、

「やっぱりだめだ」と彼はひとりごちた、「だめだ」。

 にとてもひかれる。その口語の響きに。そして、口語の孤独に。
 この詩の中に描かれているものは「しっくい」にしろ、「ソックス」「シャツ」にしろ、互いに響きあっている。「無残なもの」「形の崩れたもの」として「ナルシス」そのものときつく結びついている。「レタス」も「鏡」も響きあっている。
 ただ、「やっぱりだめだ」「だめだ」という口語--ことばだけが孤独である。

 かつてナルシスには美があった。そのとき、ことばは必要なかった。美そのものがことばだったからである。いまは、それがない。そして、美を失ったとき、ことばが、「肉体」のことばがふいにあふれてきたのだ。「肉体」を突き破って、孤独な状態で。
 「だめだ」はなにとも結びついていない。なにがだめなのか、書いてはいない。しかし、誰にでもなにがだめなのか、完全にわかってしまう。「肉体」のことばとは、そういうものである。説明はいらない。「肉体」が受け止めてしまうのである。それが、どんなに孤立していることば、孤独なことばであっても。--このとき、つまり、孤独なことばにふれるとき、「せつなさ」のようなもの、「かなしみ」のようなものが生まれる。